掛け算SS

□インプリンティングラバー
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――彼がわたしに狼藉を働くことはないと、きっと心の奥底では分かっていた。
――いつからかわたしは彼を目で追っていて、それだけではなく、何だか遠く昔から彼を知っているような気がしたのだ。そう、図書館よりずっと前から。
――だからわたしが入部届けを渡した理由はきっとそういうことで、
――でも、どこか確信が持てないのだ。








これがわたしのなかにあったものだとしたら。
そうであれば、きっとこれは暴走したバグ。
既にこの記憶の“わたし”がわたしに戻っているとしても、バグの存在は好ましくない。
これは消さなければいけないもの。








――自分はこんなにも積極的だったのかと、彼を誘った後で背筋で思った。
――この震える身体は寒さのためだけではない。マンションのロック解除のテンキーを押すだけでも少し戸惑った。
――エレベータという密室に一抹の不安を感じたが、彼は至って真面目な表情で表示の上昇するディスプレイを睨んでいた。
――でも、一番震えたのは、彼の帰ろうとする瞬間だったのだけれど。








彼女はわたしをベースに作られたものであることは確かで、
端的に言えばこれは自身が総合的に考えたあるべき「通常の世界」。
――でも、そこに生きる“わたし”は本当にあのような“わたし”なのか?
わたしの知らないわたしが生きていた――その事に何か心地の無いものを感じた。
それに、想定外の行動を起こしていたのだから、尚更。すべて消去しなくては。
片手を翳すと、月に輪郭が照らされた。








――彼はわたしに入部届を返した。
――二度も私は彼の裾をつかむことは出来ないらしい。
――この震える身体は寒さのせいだけじゃない。わたしは確かにこの先の喪失感におびえていた。
――それを代弁させる声を震わす間もなく、
――エンターキーが震えた。








「消さなければいけない」のに、何故私のデバイスはそれを拒むのか。
今後いつこの記憶が暴走するとも限らないのに。
見えない力で抑えつけられた、挙げた手は虚を掻いた。
ひらいた手の平から“わたし”は零れず、かわりに零れて来たのは白い結晶だった。深海に沈むプランクトンのように、ゆっくりと、しかし確実に積る冷たさ。
わたしの名前と同じそれはいつかのデジャヴを投影させ、地に落ち融ける様子にテクスチャを重ねた。
わたしから生まれたバグはわたしを媒介にしているのだから、バグを起こさせた原因は自身の中にある。
それが何なのかはわたしには解らない。
でも、そこから派生するバグは熱を持っていて、胸を衝くもの。サブリミナルの様に、潜在的なもの。
わたしはそれにふらついた。視界が回る。一瞬、時空が歪んだのかと思ったが違った。木々も、建物も、空も、なにも変化は読み取れない。
「わたしだけが揺れていたのだ」。
――これは、わたしにだけ生じる「プログラム」。
起動条件を揃えた自分にだけ実行されるもの。バグとは違う感覚。その証拠に何にも影響を及ぼしていないのだ。
それにこの馴染み具合を読み取った限りでは、この先わたしの同一性が保証され続ける限り共に動き続けるものなのだろうと思う。
それが、わたしに命ぜられた「処分」であるなら、
アンインストールするのはもう少し先でいいはずだ。
淡く照らされる手を下げると、震えても掴まれなかった掌が少し温もった気がした。


2010,5,11

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