掛け算SS

□夜雨に告ぐ
1ページ/1ページ

意外にも冷静になっている自分がいた。
こんなことに「慣れてしまった」というのは情けないが、しかし言葉の汚し合いは今に始まった事ではないから仕方無いのかもしれない。
いつも争う事は堂々巡りで、大した出口も無く、互いに掲げた正論はそう成り立っているから折るはずもない。
口論は最終的に常套句で締められ、季節以上に冷えた部屋をある時は静かに、またある時は乱暴にどちらかが出て行く。


俺は先の見えない暗闇を歩いた。
当然ハルヒの姿は微塵もなく、いつも左方に感じていた存在の気配も失せている。
そのかわり俺の左手に揺れているのは「汚したら罰金刑」付きのものも含む二本の傘。
力無くぶら下がっているそれらは今の持ち主たちの関係を表すように歩調に合わせぶつかったり離れたりを繰り返している。


「善悪」という字面ではっきりと二つに分割されない事は解っている。
去りゆく後ろ姿にいつかの笑顔を重ねた現実も認めている。
だけど一体誰譲りなのか俺の意識はこの傘のようにそっぽを向いている。
くだらないプライドだって、解っているさ。


生徒玄関に着いた時には息を肉眼で見れるようになっていて、聞きたくもない地面を叩きつける音が響いていた。
――ハルヒは、雨を逃れたのか。
瞬間、へそ曲がりな俺の心臓が脳を無視して締めつけるように気を正させる。ふつふつ湧いてくる先刻の嫌な喧騒が胸を黒く染めるようで。
――ああ、くだらない。
考えを振り切るようにさっさと傘を広げ駆け出す。振動を伝いもうひとつの傘が俺の逃避を邪魔していた。
暗闇に包まれているのは、周りだけじゃない。
大事なものが、雨粒みたいに脆いってことは俺が一番知ってんじゃねえか。
その袋小路に見えたのは、小さな人影だった。
気付いた時には俺は既に叫んでいた。
「ハルヒ!」
さあさあと雨が鳴る。彼女は振り返った。髪に沿って雫が落ちる。
黄色のカチューシャは深く沈んでいた。
「……それ。あたしの傘」
指された方を仰ぐ。慌てて渡そうと思うが早いか、ハルヒは左手でその傘をひったくり、空いた俺の左方を握った。
「汚したら罰金って言ったでしょ」
感触を確かめるように、強く手が握られた。
静寂に響く夜雨の音が、静かに胸に溜まっていく。
やがて自然に始まったゆっくりとした歩みを崩さないように、俺は告げた。
「……ああ。すまない、ハルヒ」
雨はじき上がるだろうと、そんな気がした。


2009,12,10

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ