掛け算SS

□その時の僕の顔を君は知らない
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指定した時間いっぱい鳴った夜中の着信に苛立たなかったのはこれが初めてかもしれない。特に夢を見ていた覚えも無かったため比較的緩やかに現実世界に意識が引っ張られた。
実は着信の数秒前にはもう目は覚めていたのかと思うくらい淡々とし起伏の無いその現象はただ冷えた感覚を与えるだけで俺を二度目の眠りへとは導かない。
起動し始める脳でこんな時間に俺を訪ねる者の姿をぼんやりと想像しつつ手探りで掴んだ携帯電話を耳に当てる。
応答の際出た声は思ったより低い腑抜けたものだった。
『……………』
電話特有の耳鳴りのような一定の機械音。沈黙がそこにはあった。一瞬応答のボタンを押してないかと思ったが画面は通話時間を重ねている。
「もしもし」
催促するように投げ掛ける。しかし聞こえて来たのはやっぱりヘルツの高い沈黙の印。
こんな時間に、と苛立ちを交え性質の悪いいたずらを一掃すべく強制終了させようとボタンに力を入れかけた所で、
『…………キョン?』
驚いたような、そしてどこか不安そうな声が小さく聞こえた。
「ああ、ハルヒか。……どうした?」
『………目が冴えて。それに、声、聞きたくて』
俺の口からはそうか、という後に続かないような三文字しか出て来なかった。
予想した人物が当たった、それだけの事だ。

『電話って、便利よね』

無機質な機械を通した声は肉声の時表現できる感動も奪ってしまうように思えた。
しかしそのハルヒの感想以上に俺は自分の耳に届く肉声の方が感動を失っているように感じた。
「ああ、先人には感謝してもし尽くせないものがある」
ボイスチェンジャーでも使ったかのようだ。自分ではない誰かが応答しているようで。
『どんなに遠く離れていても会話が出来るの。それに――』
俺はハルヒの称賛を黙って聞いていた。しかしその声は耳をすり抜け暗闇に溶けていった。

『……だけど面と向かえないから、電話は相手がどんな顔をしていようと会話は続くから声色に頼るしかないのよ』

その部分だけ耳に残った。

ねえ、とハルヒは続けた。
『最近会えてないじゃない』
今度は携帯が作用しているのか自身がそうさせているのかわからない平坦。
「何だかんだ言って受験生だしな」
自分の声も平坦に変換され、ハルヒに伝う。
『そう。でも一日くらい勉強を休んでもいいと思うの。ねえ、明日休みでしょ。遊びに行かない?』
口の端は依然一文字を貫いている。目線は明後日を描いている。
「ああ、良いな」
『じゃあ、明日10時に喫茶店前ね。遅れたら、』
「罰金だろ?」



俺は電話を切った。言い様のない倦怠感が俺に纏う。
先程の約束を頭に書き留める余裕やスペースは無かった。
彼女は知っているだろうか。自分という存在の名称が俺の中で以前のものに書き換えられている事を。
彼女は知っているのだろう。最後の会話のやりとりのお互いの声色と顔色を。



どのくらい時間が経っただろう。俺は再度着信に覚まされた。一回しか鳴らなかったそれは後の静寂をより引き立てた。
リセットされた一日は身体も脳も新しいものに変えるようだった。整頓された瞳で携帯を眺める。
しかし前の日の夜中のようにスムーズに身体は動かず、俺は鉛のようにまるで動かせない肢体に従いぼんやりと、点滅するシグナルを眺める作業に没頭した。
デジタルのディスプレイは、10時半を表示していた。

あれだけ時間に煩いのに携帯は二度も鳴らなかった。
あの時のハルヒの顔を、俺は漸く知った。


2009,12,26

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