―戴国短編小説―
□恋恋
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連日の激務に追われ鉛の様に重くなった躯を引き摺り、李斎は臥室の扉に手を掛けた。入るなり皮甲を榻に脱ぎ捨て、臥牀の上に深く沈み込む。だが、疲れ果てた心と躯は李斎が眠る事を許さなかった。微睡みながら指一本動かす事も出来ず妙に思考だけが醒め、李斎は苦しげに躯を捩らせる。苦しいのは眠れないからではない。心の奥が締め付けられ自身の想いに収拾が付けられないからであった。深く瞼を閉じたとしても訪れるのは暗闇などではない。脳裏に浮かぶは一点の色鮮やかな光。それは李斎を優しく暖かな温もりで包み込んでくれるのと同時に、身を刺す様な強烈な激痛をも齎した。
――何故あの様な事を私に仰る。
鮮明なる光は彼の人の姿を象り、李斎の内奥に音を立て流れ込んで来る。――決して想いを寄せてはならぬ方なのに……。そう思えば思う程に心は乱れ想いは募るばかりだった。だが、この想いは捨てなければならないのだ。決して心惹かれてはならい方だと自身に言い聞かせる。李斎は彼の人の重臣。彼が築いて行く未来の礎になろうと、瑞州師の将に拝命された時そう心に決めていた。
――だから、この想いは秘め続けなければならない。……なのに。
(お前が愛しい)
鼓膜に響き渡る低い掠れ声。それを思い出し李斎は、自身の肩を掻き抱き、躯を微かに震わせた。
(私を受け入れろ)
それが出来たらどれほど楽だろうかと李斎は思う。彼の人の気持ちを受け入れ、誰かに憚る事なく、私も貴方様が愛しいのだと、何度もその耳に繰り返し囁きたいと思う。自分以外誰もいない臥室で、殆ど衝動的に声を上げそうになるのを必死で堪え、衾を強く握り締めた。苦しくて苦しくて頬を伝い流れて行く温かい涙が、絹張りの衾褥へと一粒二粒と雫を落とし、冷たく濡らして行く。
「……驍宗様」
喉元を迫り上げる感情のまま言葉を紡ぎ出せば、愛しい人の名に尚一層切なさが込み上げた。
李斎は掌で強く瞼を擦り自身の手首を見遣る。自室に戻る直前驍宗に呼び止められ、逃れ様とした際、強く手首を掴まれた。骨が軋む程の力で掴まれ、彼の真摯な想いが伝わり、李斎は恐ろしくなって彼の言葉を拒絶した。想いを告げられた時、確かに感じたのは心が震える程の喜びだった。そう思ってしまった自身の気持ちが恐い。
(私には分不相応な事です)
そう答えると驍宗の苛烈なまでに鋭い眼光は更なる強さを増し、濃い血色を呈して揺らめいた。その奥深くが翳り一瞬垣間見せた哀しみの色に、李斎の心は音を立て軋み同時に内奥を深々と抉られた。
(……待っている)
熱の籠もる眼差しで見詰められた時、この方からは逃れられないと心の何処かで李斎は悟った。どれだけ自身の気持ちを否定しようとしても、内実にあるのは驍宗への深い思慕。――それなのに何故こんなにも躊躇うのだろう?求められていると言うのに、応えられないのは一体何故なのか。
それは自身を深く苛む背徳感。
臣である自分が、王である驍宗に懸想する感情そのものが罪なのであり、畏れ多いと感じているからだ。そう頭では理解しているつもりなのに、手首から伝わる彼の温かさが忘れられない。それを全てで感じたい。何もかも忘れ、驍宗に自身を委ねたいと言う欲求が、静かに忍び寄り頭を擡げた。
(――今宵自室にて李斎を待つ。お前は必ず来る筈だ。時として人の心と言うものは、自身の理性を遥かに超越するものなのだから)
李斎は瞑目する。脳裏を過ぎるは束の間の幸福か、或いは深淵を辿る混沌なのか――。
全身を走る緊張感が長く濃い睫毛に伝わり僅かに震えた。李斎の心はもう疾うに決まっている。驍宗から想いを告げられた時、何を差し置いてでも彼の気持ちを受け入れたいと、心が悲鳴を上げ、涙を流していたのだから。
――これからする事は条理から外れた行いなのかも知れない。
きつく閉じた瞼を開け、貌を徐に上げる。蒼く澄んだ瞳は、眦を決したかの様に凛とした色を湛えていた。夜の帳に静謐な沈黙が降りる。それを破るかの様に李斎は立ち上がり、扉へと歩みを進めた。驍宗の許へと向かう為に。灯籠の淡い焔が扉から入る風に吹かれ、細い灯りを揺らし、やがて小さくなって暗闇を齎した。誰もいなくなった臥室は静けさを増し、再び閉ざされたのだった。