―戴国短編小説―

□驟雨
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鴻基の中心部に近付くにつれ人々の活気は大きくなり辺りは一層の賑わいを見せていた。子供達は元気に走り回り、道端では客寄せで大声を張り上げる商人や買い物客でごった返している。だがその喧騒も今の李斎の耳には届いておらず、先程の事を思い返しては自然と嘆息が漏れ出た。それを驍宗は横目でちらりと見遣り、気付かない振りをしていた。お互いに暫く会話もせず無言で歩いていると前方より驍宗に向かって勢い良く走って近付く者があった。李斎はその気配を瞬時に感じ取り腰に帯びた自身の剣に手を掛ける。

「――何事か!?……無礼者!」

柄を握り締め、今にも抜刀する勢いで李斎が走り寄る者に叫んだ。――まさか主上の命を狙う賊だろうか?そう思うと額からひやりとした汗が流れた。だが全身に闘志を漲らせ、応戦する態勢を整えた彼女の手を驍宗は自身の手で力強く押さえ込み、それを止めた。その伝わる体温に李斎は驚いて背後の驍宗を見上げる。

「あの者はただの商人だ。急いでいたのであろう。他意はない」

彼の言に李斎は戦意を殺がれ不思議そうに首を傾げた。またしても真意が読み取れない。驍宗はそんな彼女の瞳の奥を見詰め諭す様に問い掛ける。それで彼女も先程の件が早合点だと知り、驚いた様子を見せた。そして暫しの間互いの視線が複雑に絡み合う。だが主である彼に見詰められ、堪えられなくなった李斎は、徐に視線を外し、未だ自身の手に添えられる驍宗の大きな掌を見遣った。そこから伝わる暖かな温もり。それに酷く戸惑い、気恥ずかしくなって俯いてしまう。

――これは堪えられそうもない。

瞑目し長い睫毛を伏せ微かに肩を震わせた。もうどんな表情を作る事も叶いそうにない。殆ど泣きそうな表情をした彼女の手を、彼は軽く叩き、視線を上げる様に促した。李斎は恐る恐る貌を上げると間近に自身を覗き込む驍宗の貌があり、驚きで眼を瞠る。だがその表情は優しく慈愛に満ちており、穏やかな微笑みを湛えていた。

「その様な表情をするな。お前は私を守ろうとしただけだろう?」

気遣う言葉が疲れ切った彼女の心に沁み渡る。――何故こんな自分に主上は鷹揚と接してくれるのだろうか?そう思うと心臓は早鐘を打ち、眩暈を覚え、李斎は強く胸を押さえる。その様子を驍宗は静かに見守り、寄り添う様に佇んだ。彼女の気持ちが回復するまで、何時までも待つ心構えであった。

ぽつりぽつりと、二人の間に、空から水滴が舞い落ちる。

細い雨は直ぐに雷鳴を伴い雨脚を強め、地面を濡らして行った。何時しか二人を取り囲んでいた喧騒も静まり、雨の音だけがその場を支配している。少し冷たいその感触に、李斎は我に返って眼の前の驍宗を見遣った。空を見上げていた彼はすっかり濡れそぼっており、李斎は慌てて近場にある民居の軒下へと走る様、彼を促した。

「驍宗様、これを――」

彼女は急いで袂から手巾を取り出し驍宗の額を伝う雫を丁寧に拭う。自身も濡れている事には、まるで意に介していない様子だった。必死になって自身を拭う李斎に驍宗は少し貌を顰め、その手を取り、彼女の動きを止める。

「お前も濡れているではないか」

そう言って李斎の頬に張り付いた長い髪に触れ、それを後ろへと流してやる。李斎は頬に感じる暖かな感触に一瞬きょとんとして驍宗を見上げた。頻りに髪を梳く彼の表情は柔らかく、肌に感じる体温の様に暖かい。暫く茫然とされるが儘になっていた李斎だが、自身が驍宗を食い入る様に見詰めていた事に気付き、頬を赤らめ、慌てて俯いた。そして恥じらいながら自身の長い髪に触れ、貌を隠してしまう。その反動で驍宗も手を離し、彼女を見詰め微かに笑った。行き場を無くした自身の腕は徐にそのまま組んでしまう。

「まだ、止みそうもないな」

――もう少し此処で雨宿りでもするか。そう呟いて李斎から視線を逸らし驍宗は空を見上げた。大粒の雨はその強さを弱める気配はない。李斎は俯いたまま彼の言葉に頷く。音を立て地面に到達する水滴は、波紋を拡げ、様々な模様を描き出している。それは水鏡の様に二人を映し出しては、移ろい行く心の様に、その姿を揺らしていたのだった。

         <終> 20110429

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