―戴国短編小説―

□驟雨
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「そろそろ降り出しそうだな」
「……主じょ……いえ、驍宗様。そろそろ宮城にお戻りになった方が宜しいのではないでしょうか」
「まだ目的を果たしてはおらぬ」
「……それは……、ですが」

李斎は神妙な面持ちで空を見上げた。低く重い雲が垂れ込める薄墨色の空は、今にも大粒の涙を落とさんばかりの様相を呈している。この分だと雨が降り出すのは時間の問題だった。李斎は思考を廻らせ、何とか主を宮城へ連れ戻す方法を考えていた。――このままもし雨が降り出して、主上を濡らす様な事になっては……。李斎の心はそればかりが気懸かりで、当初の目的などはすっかり忘れ、頻りに彼と曇天の空を心配そうに交互に見遣っていた。そんな戸惑いがちな表情の李斎を余所に、驍宗は軽く微笑って鴻基の中心部へ続く広途へと彼女を促した。

広途を行く人々の貌には生気が漲り皆一様に明るかった。登極前から他国にまでその名を轟かせていた驍宗は、驕王の時代より王都鴻基でも百姓の信任篤く人気が非常に高い。だがそれも、今の李斎にとっては不安要因の一つでしかなかった。有名である、と言う事は、それだけ驍宗の貌が人々に知られている事を意味しないだろうか。彼はこの国の頂点に立ち、戴国を導いて行く要。そんな人が無防備にも将軍である李斎一人だけを連れ、下界を散策する。そんな事があって良いものだろうか。驍宗に何かあっては国の大事。勿論腕に覚えがあり王師にまで抜擢された李斎には、驍宗を守り仰せる自信がない訳でもない。それに武断の王であり驍名を馳せていた彼自身が、容易く事件に巻き込まれる様な事はないだろうとも思う。それでも彼女の不安と緊張を払拭する事は出来なかった。

「――李斎。そんなに頑なになる必要はない。もう少し景色を楽しむ余裕を持ったらどうだ?」
「その様な事は……」

貌を強張らせ、何かの変事が起きてはいないか。辺りに注意深く視線を廻らせる李斎に、驍宗は軽く苦笑し、何事も起きていないと言う様に声を掛けた。

――全く。どうしてこうも彼女は真面目過ぎるのか。勿論それが、李斎の良い所なのだが。

驍宗は胸中で一人苦笑し続けた。

――だが少々責務に実直になり過ぎ、情緒と言うものに欠けている気もする。折角共に過ごしているのだから、暫し景色を互いに楽しむ余裕も欲しいのだが……。

そう思い常の覇気を出さぬ様に穏やかな表情を湛え前方を見る様に彼女を促した。驍宗が指し示す方を見遣り李斎は声を小さく漏らし瞠目する。先程まで緊張を走らせていた彼女の瞳に飛び込んで来たのは、道端に咲き綻ぶ見事な紫陽花だった。淡い色調の青紫の花弁が幾重にも重なり合い、可憐な佇まいで灰色の景観を彩っている。――見事なものだろう?李斎の背後で驍宗の声が聞こえる。

「これが見たかったのだ」

そう言って笑う彼に促され李斎は見蕩れる様に紫陽花に近付き繊細な花弁にそっと手を添えた。そこから伝わるひんやりとした感触。それが心地好く彼女は瞼を伏せて黙り込んでしまう。それを驍宗は陶然たる思いで眺めていた。灰色に染まる色のない世界に紫陽花の淡い色調と彼女の赤みを帯びた長い髪が相俟って、一枚の絵を見ている様な心地がした。暫しの沈黙ののち李斎はそっと瞼を開く。この上ない美しい笑みを湛え驍宗に問い掛けた。

「驍宗様は紫陽花を御所望だったのですね。――では、目的を果たし、白圭宮へ戻りましょう」

そう言って花弁に添えた指先を茎に滑らせ力を籠める。その彼女の無邪気で悪意のない行動に、驍宗は僅かに驚いたのち軽く眼を瞠り彼女の行動をやんわりと窘めた。

「手折る必要はない」
「――はい?ですが……、」
「その必要はないのだ、李斎」

驍宗の思考が読めず暫く茫洋としていた李斎だったが、彼の言葉の裏に隠される真意を読み取り、はっとなって頬に朱を上らせた。

「も、申し訳ございません!」
「謝らなくていい」

手折る必要はないと言う驍宗の言葉は彼の眼を見れば明らかであった。紫陽花を愛でる表情はそこに咲いているからこそ美しく、私心により手折ってまで手に入れるものではないと物語っている。李斎は浅はかな自分の行動を恥じて俯いた。どんな表情を湛えて彼に貌を合わせて良いのか分からない。

「――李斎。このまま鴻基の中心部へ行かぬか?私はもう少し息抜きをしたい。お前には申し訳なく思うが、暫し付き合ってくれると有り難いのだが……」

穏やかなな笑みを湛え驍宗はそう提案する。李斎は唇を噛み締め俯いたまま頷いた。――守るべき主に気を遣わせてしまった……。そう思うと情けないやら悔しいやらで、泣きたい気持ちが込み上げて来る。だがこれ以上そんな痴態を曝してしまっては、今度こそ驍宗に呆れられてしまう。そんな事は堪えられない。そう思い李斎は静かに感情を押し殺したのだった。


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