―戴国短編小説―

□氷点下の青空
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――戴国委州。嘗て阿選の叛乱により灰燼と帰した驍宗の郷里呀嶺は、数十年前見た時と変わる事なく細い煙が棚引いていた。雪融けの気配もなく、まだ春遠い大地を踏み締め、李斎は伏せていた瞼を上げ、眼下を見下ろした。肌を刺す寒風が、彼女の長い髪を空に巻き上げ、流れる螺旋を描き出す。李斎は靡いた髪を左手で軽く押さえ付け、再び前へと歩みを進めた。そして、その直ぐ後ろを少し遅れて歩く、彼女とは別のもう一つの人影。眼の前に拡がる一面の銀世界を彷彿とさせる灰白色の髪とその燃え盛る焔の双眸。

「主上」

李斎は背後にいる己が主を仰ぎ見る。常の覇気を纏わせ鋭過ぎるとも思えるその眼光は、この時珍しく影を潜ませ僅かに揺れていた。

「嘗て私に聞かせてくれた、隠者と少女がいたのは此処なのか?」
「左様でございます」
「――そうか」

そう言って頷き驍宗は眼下に向かって黙礼する。何事か短く言葉を紡いだが、それは冷たい風に攫われ、李斎には聞き取る事が出来なかった。彼の表情には深い苦吟が滲み色濃い翳りが窺えた。それは彼女の胸に、細い針で穴を穿つ様な小さな痛みを齎す。けれども、この上なく李斎の心を苛む、鋭く哀しい痛みでもあった。

――ああ、どうか。どうかこれ以上は、お一人で苦しまないで下さい。李斎がお側におります……。

戴は王と麒麟を取り戻し、徐々に復興を遂げていた。だが一国は拡く数十年で全て立ち行く筈もない。王の恩恵が行き届かない土地など探せば幾らでも存在していた。李斎は茫洋と眼の前の男を凝視する。麒麟でなくとも分かる、強い王者の風格。だがしかし驍宗が疲弊しているのは明らかで、李斎は痛みに堪え兼ね自身の胸を押さえた。この方の力になりたい。そう思い、失われた右腕を顧みる事なく前を進んで歩いて来た。内乱後驍宗は李斎が側から離れる事を断固として拒んだ。そして李斎も何も聞かず驍宗の傍らに寄り添い、数十年の月日が流れた。あの忌まわしい出来事は、端々で深い爪痕を残していたが、驍宗の善政により、それも徐々に風化の一途を辿りつつあった。

「山間の隠者は、戴の民の幸いを願うなら、私自身も幸福でなければならないと申しました」
「――お前は今、幸福か?」
「王が救うと言う民の中に、私自身も含まれているのだと。――ですが、その民を救うと言う、王自身を救うのは一体何なのでしょうか。主上の御心を安んじて差し上げられるものは何なのです?」
「李斎」
「主上はこれから先、何年民を救わねばならぬのでしょう。主上の御心が救われる事なく、一体この先何年続ければ……!」

驍宗は徐々に激して行く李斎の残された腕を取り、宥める様にその背を軽く摩った。様々な気持ちを押し殺し、内乱後ずっと側で驍宗を見守って来た李斎は、復興と繁栄の影にある、驍宗の苦悩と彼が自分自身へ向ける強い憤りを目の当たりにして来た。主上の所為ではないのに。以前李斎は彼にそう訴えた事があった。だが驍宗はその場で瞑目して噛み締める様に言葉を返して来た。

――阿選の乱は、私自身が招いた事と同義に思える。……彼の心の闇に気付いてやれなかった。だからこれは、私の咎なのだ。

これではあんまりではないだろうか――。何時まで彼はこの先苦しみ続ければならないのか。王とは自分自身を忘却の彼方へと追いやり、麒麟と誓約した時点でその存在を、不確かで不透明な天に委ねなければならないのか。王になる事は兼ねてより彼の悲願であったのは間違いない。だがこんな形ではなく、もっと洋々と明るかったに違いない。そう思うと喉元を苦いものが込み上げてくる。それに堪え兼ね、李斎はその場で俯き強く唇を噛んだ。咥内に拡がる鉄の味に悔しさを呑み込む。


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