―戴国短編小説―

□蒼月夜
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冷たい臥室、蒼い幽光を朧げに漂わせた月。眼下に拡がる雲海に眼を移せば、靄に覆われ、美しい様相を呈した景観が映し出されていた。驍宗は中央に置かれた大きな円卓に書類を放り出し、代わりに酒杯に手を伸ばす。喉を通る強めの酒は、寂寥とした心に小さな熱を点してくれる様で、彼は何時もよりそれを多めに呷った。

驍宗はその場で瞑目する。脳裏に浮かぶは、長い赤茶の髪を緩く垂らし、凛とした表情で兵卒に指示を出す、皮甲姿の女だった。

彼女の姿を想い浮かべると必ずと言って良い程、胸の奥がちくりと痛み、同時に形容し難い甘い感覚が躯中に拡がった。出逢った瞬間に良い女だと思った。だが将としての才気煥発な能力を認め、その斟酌に優れた人柄に触れた時には、自制心が強く働き、この女はこれからの自分の王朝に必要不可欠な人材だと理解した。――理解していたのだが、自制すればする程、彼女の事が気になって仕方がない。そしてあの流れる髪を優しく梳き、透き通る肌に唇を寄せたいと切に願う様になったのは何時の頃からであっただろうか。その烈しいまでの感情は、日毎に増して自制心に勝り、抑制するのが困難になって行く。

驍宗はそこまで思い至り、白銀に縁取られた瞼を伏せたまま、自嘲の笑みを落とす。結いもせず肩に掛かった髪に、自身の指を差し入れ、軽く掻き上げた。そして臥室の外に控えた女官に声を掛ける。

「――火急の用がある。瑞州師の劉将軍を呼べ……」

是を伝える女官の声が静寂を破り、驍宗の冷たい臥室に響いた。

********

規則正しい足音が回廊に谺する。

夜も更けて、温かな衾褥に包まり、微睡みつつ浅い眠りを繰り返す李斎に、正寝からの使いが官邸を訪って来た。国主である驍宗が深夜にも拘わらず、李斎を名指しで召集するのは稀な事であった。彼女の身の回りの世話をする家人達も訝っている。李斎は周囲の人々を見渡し小さく嘆息すると穏やかな笑みを浮かべて声を掛けた。

「鴻基の街で何か小規模の乱でも起こったのかもしれないな。主上は傑物だが、登極間もない首都で何か起こるのは珍しい事でもないし…皆浮足立っているんだろう」

そう言って家人から受け取った旗袍をしっかり羽織り自身の官邸を後にした。外に出てみると夜更けの白圭宮は静謐な空気を纏っており、何時にも増して荘厳な雰囲気を醸し出している。李斎が正寝のある一郭まで辿り着き門殿を潜ると、たおやかな所作で跪礼する女官が、驍宗の臥室まで案内してくれた。

大きな白塗りの扉が女官によって開かれる。だが堂室には灯りが点される事なく暗闇のままだった。李斎は一瞬訝り、暗闇に眼を凝らす。そうする事で闇に慣らされ、玻璃窓近くの榻に佇む王の姿を認めた。闇夜でも朧げな月に照らされ、しなやかで力強い紅い眼が、李斎の姿を捉えて放さない。

李斎はその視線を断ち切れず居た堪れなくなり、その場で平伏して参内した旨を儀礼通り伝えた。

驍宗はそれに頷くと静かに此方へ…と、彼女を促した。扉に控える女官には無言で片手を上げ、退室と人払いの意を伝える。流れる動作で一礼し、女官が扉を締める音がする。そうすると最早月明かりのみが臥室に届く光で、李斎は少し居心地の悪さを覚えた。

「――主上。畏れながら灯りを点しても……?」
「好きにするがいい」

その言葉に李斎は息を吐き、牀榻近くの燭台に灯りを点す。そうすると僅かな光ではあるが、王の表情も幾らかは先程より見易くなり自然と胸を撫で下ろした。


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