―戴国短編小説―

□点鬼簿
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剣を握り締め、両腕を振り上げた瞬間、相手の驚愕と嫌悪に歪んだ貌が一瞬にして脳裏に焼き付いた。人は生命が失われるその時、何を思い、何を願って死んで行くのだろう。せめて苦しまないよう振り下ろされた剣は、鈍い音と共に血塗られた。点々とした赤褐色の模様が、真っ白な地面に鮮やかに描き出されている。だがそれも、直ぐに厚い雪に覆われ、その痕跡は消えてしまうのだろう。

――こんな事で私の心は動かされたりしない……。

軽く剣をその場で払い、速やかにそれを鞘に納めると、女は背後に控えた兵卒に無表情で告げた。誰にも見られぬよう片付けておけ、と。兵卒は女の命に従い、その場で拱手すると、直ちに骸と化したものを運び出す。それを同じく、何の表情も見せずに見守っていた師帥は、自分の上司である女に訝しげに声を掛けた。

「劉将軍。どうされました」
「何がだ?」
「顔色が優れぬようでしたから」
「大丈夫だ」

ふと瞼を伏せ、女が薄く微笑う。その表情には深い憂いの色が滲んでいた。それを横目で眺めていた師帥は、何て美しく哀しい表情をされるのだろう…と密かに思い、俯いた。まるで、見てはいけないものを見てしまったかのように。だが、再び師帥が貌を上げた時には、既に女は後で緩く括った長い髪を揺らし歩き出していた。背筋を伸ばし、規則正しく歩く様は、王師の将軍まで上り詰めた揺るぎない足取りであった。師帥はその背に一礼すると、残された兵卒の指揮を執るべく女とは逆の方向へと静かに歩き出した。

********

しんしんと降り積もる細雪。
踏み締める度に静かに響く足音。

女は立ち止まりその場で空を仰ぎ見る。とめどなく落ちゆく雪片は白皙の貌に当たる度に融けては流れて行った。

――彼は白圭宮に招かれてから初めて親しくなった人物であった。

民を思い、戴の現状を憂いては、一緒に良い国にして行こうと熱く語ってくれた。好人物で博識があり、そのまま行けば間違いなく国の中枢を担う事になったであろう彼は最早この世に存在しない。よもや悪辣な州侯と癒着し、金を横流しにしていたなど女には信じられない事実であった。御璽の押捺された調書を見た時には、得も言われぬ感情に支配され怒りが一瞬にして身内を駆け抜けて行った。だが、彼の最期の貌が頭から離れない。

そこまで思い至ると女は視線を自身の足元へ移し、瞑目して小さく自嘲の笑みを零した。俯いた貌を上げ、真っ直ぐ前を見据えると、その場で大きく空気を吸い込む。喉を通る冷たい風は、そのまま奥へとへばり付き呼気を詰まらせ、息苦しささえ覚えた。

――そう。こんな事で心を動かされてはいけないのだ。

後を振り返る事もせず、女は再び歩みを進めた。辿り着いた先は王の住まう正寝の一室。大きく聳える白塗りの扉を見上げ、一度嘆息すると、訪いを知らせる為に軽くそれを叩いたのだった。


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