―戴国連作集―

□小夜更けて
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――眠れない。


簡素な天幕の天井をぼんやり眺めながら、李斎は一人呟いた。眠れない原因は自分自身でもよく分かっていた。昼間蓬山公と出掛けた折、出逢った精悍な顔立ちの男の姿が目を閉じると鮮明に脳裏に蘇り、眠れなくなるのだ。

――この十二国で一、二を争う程の剣客。軍兵からの信望篤く、礼を知り、道を知る人物。確かに李斎は蓬山公である泰麒に男の事を問われ、そう話したのを覚えている。

そうして数日後、李斎はその男と運命的な出逢いを果たした。何時もの様に泰麒と一緒に出歩いていると、目を奪われずにはいられない美しい獣、趨虞と行き会ったのだ。泰麒も興味を惹かれていたし、李斎自身も見るのが初めてであった為、二人は直ぐに近くに寄り、その美しい獣について談笑した。そして獣が繋がれた天幕へと声を掛けたのが二人の出逢いだった。

――失礼をつかまつる。表の趨虞の主はおいでか。

――計都の事なら私の乗騎だが。

直ぐに後ろから掛かった声は恐ろしく研ぎ澄まされおり、李斎は思わず戦慄した。そして己の心を奮い立たせ、身構える様に背後を振り返った。まず初めに目に飛び込んで来たのは怜悧な印象の深紅の瞳。そして太陽光を浴びて白銀に光る灰白色の髪と、褐色に灼けた逞しい肌だった。

李斎が彼を茫然と見ていると彼女の背後から、やはり気後れしたふうの泰麒が「驍宗殿…」と震える声で小さくその名を発した。李斎は驚き、この人が…、と心の中で呟く。確かに噂通り柔和な人物ではなさそうだと思った。だが、自分を見返して来る苛烈な瞳が濃い色を湛え、奥で揺れるのを見て取ると、李斎は堪らなくこの傑物と称される男に興味を覚えたのだった。

――何て眼をなさる……。

強い光を帯びる紅玉の瞳は確かに直截苛烈な印象を受ける。だがその奥深くは、寂しさとも哀しみともつかない不思議な色が渦巻いていた。勿論それは一瞬であったし、見逃す者は簡単に見逃してしまうだろう。だが李斎は憂いを帯びたその瞳に気付いてしまったのだ。勿論理由何て分かりはしないのだが。

――そんな眼をされたら…と、身内が疼く痛みを覚え、少し目線を逸らした。

だが、その様な印象は本当に一瞬で、李斎が再び目線を合わせた時には、男は直ぐにその揺らぎを引っ込め、自信に満ち溢れた表情に変わっていた。その表情は噂通りの印象を受ける。――見間違いだったのだろうか?と李斎は思った。いや思おうとした。だが、それでもあの一瞬垣間見た瞳が忘れられなくなったのだった。

李斎はそこまで思い至ると深く息を吐き、諦めて手近にあった上着を軽く羽織った。そして臥牀の近くに置いてあった水差しに手を伸ばし、それを一気に呷る。喉を通る温い水の感触を確かめてから再び息を吐き、李斎は臥牀から抜け出し、自身の天幕を後にした。少し夜風に当たりたい。そんな気分だった。


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