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□紳士淑女の皆様へ
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(どうか其所の紳士な貴方、いつか逢えると言ってくれ)



僕は学習塾跡の前で立ちすくむ。
ゆっくりと目を閉じ、歩みはじめた。視覚情報に頼らずとも歩ける程通い詰めた場所だ。
ただ見えない、それだけなのにこうしてみると忍野の気配が、匂いが色濃く残っていることがわかる。
手を伸ばせばそこに忍野がいるような、抱きすくめてくれるような、そんな錯覚を起こした。
忍野に抱きついた時の汗のような、忍野の匂い。
忘れられない。忍野の首筋の匂いも、あの少し色褪せたアロハの柄も、人を苛つかせる笑い方も、後ろ姿も、僕を呼ぶ声も。
何度哭いた事だろう。
忘れたくないと、離れたくないと、依存したくないと。
慟哭した。傍に居たいと願い永遠で在りたいと想い抑えきれずに在るが侭伝えた。
笑ってはくれた、頷いてはくれなかったけど。
ぎりぎりと僕の心を締め付ける忍野の思い出に堪えきれず僕は目を開けてしまった
目の前にある忍野だけが欠落した愛しい場所は夢のような自然な違和感と共に目に馴染んだ。
無意識の内に伸ばしかけた指先は誤る事なく忍野の定位置、机で作られた簡易ベッドへと向かっていた。
一度意識してしまった忍野の匂いは視界を得た今も薄れる事なく漂い、変わらずに僕を苦しめる。
先程まで僕を充たしていた忍野の思い出はいつしか、忍野との思い出へと変貌していた。
戦場ヶ原と付き合っていると告げた時の反応や忍に血を与えた後の僕を綺麗だと言ってくれた事や
星を見ようかと屋上へ誘ってきた時の声が。
どうして言えなかったのだろう。しつこいほどに言えれば、良かったのだろうか。
傍にいて欲しい、と。離れたくない、と。好きで好きで堪らない、と。
繰り返し、繰り返し伝えれば良かったのだろうか
一度だけ、忍野が僕に泣けと言った事がある。
君は大した容量を持ち合わせてもいないくせに直ぐに抱え込もうとするから、たまには誰かの前で泣きなよ、と。
だから、泣いた。ひたすら、泣いた。
好きだ好きだと喚いて、嫌だ嫌だと嘆いた。
ただ曖昧に「うん」と頷くだけだった忍野は唯一度、僕が「好きなんだよ、忍野。堪らなく、どうしようもなくお前が好きなんだ。
どうしたって離れたくない」と言った時だけ優しく、柔らかく、甘く、暖かく「うん」と言った
思い出してしまった。鮮明に。とても鮮烈に。
思い出したら、口を突いて出た。
「好きなんだよ、忍野。堪らなく、どうしようもなくお前が好きなんだ。どうしたって離れたくない」
その言葉は僕の中にくすぶっていた忍野への想いを暴発させ、僕の体が感じていた忍野の匂いを膨張させただけだった。
「…ァ、うぁ…ッ」
ただぼろぼろと泣き続けた。そうすれば忍野が帰って来てくれるような気がしていた。
いつものようにニヤニヤ笑いながら僕の頭をぐしゃぐしゃと掻き回してくれると信じたかったんだ。
有り得ないとわかってはいたけど、認めたくなかった。忍野がいない、という事すら認めたくない。
況してやもう会えないかもしれない、なんて…
どうしたって認めたくない。だから




(どうか其所の淑女な貴方、僕に夢だと言ってくれ)

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