赤紅の傷痕U
□五
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実家からの文で夏晨が荷物をまとめ始めたのは、夜の会合から八日後のことだった。
身の回りの整理をしている夏晨の横顔は晴れていて、以前の不安はない様子だった。
まただれかのこの屋敷を出て行く。しかし時を止めることはできないし、ましてや同じ日々を永遠につづけることなどないのだからと、明雪は言葉にできない寂しさを感じながら荷造りを手伝った。「おめでとう。幸せに」
厨房で夕餉の支度をしていると、清春が足音をひそめ近づいてきた。
湯気が立ちこめ火の鳴る音がせわしない。
「ねえねえ、戻ってらしたわ」
「どなたが?」
「雀(シャン)さまよ、今日は運がいい」
鳥のように飛びはねながら浮かれる清春に明雪は呆れた。包丁で緑の野菜を切る手を止めしてしまったのをこれほど悔やんだことはない。
「あなたがどうしてあの人に入れこむのか、さっぱりわからない」
「前にも言ったじゃないの、お綺麗な殿方だからよ」
「ええ、うん。ほんとうだわね、ほんとうに、お人形なかんばせ」
「どうしたのかしら、眉間に皺が寄ってらしたわ。だけどそれでもお美しいの」
清春は前かけをつけながら満面の笑みを途絶えさせない。
「はやく準備をしてちょうだい。夏晨がいなくなってしまったから、人手が足りないの」
明雪は野菜に目を落とし、ふたたび包丁で刻み始める。すると清春は困った顔をして言った。
「機嫌悪いね、苛々してる」
いかにも疲れた色をにじませている。いつものはなやいだ声音ではなかった。
「……………忙しいのだもの」
「忙しいのはいつも。慣れてるはずでしょ」
「ひとりいなくなったから、仕事が増えたからよ」
「ううん。明雪は不穏で仕方がない。理嬢さまが、消えてしまったから」
「清春」
その方の名を出さないで。奥方さまや養子になられた若さまに聞かれたら。それよりも元譲さまの耳に入れたくない。
「みんな忘れてるふりや始めから無かったことにしてるようだけど、そろそろ限界かもね」
「限界?」
「変わるのを嫌いなものも好きなのもあるけど、理嬢さまに蓋をするのって、気に入らないの。だって、みんなして芝居をするってことでしょう?」
「……………理嬢さまは、元譲さまが」
「ここにいまふたりだけだから言っちゃう。不自然なの。不自然に慣れない。不自然をあたりまえにして虚勢を張っているから、みんな苛々してる……………明雪、私はあなたが一番に心配」
「わたくしが?なぜ」
元譲さまでは、と言いかけて明雪は口を噤んだ。
「理嬢さまを任せられたのは、あなただもの」
そう。清春ならず屋敷の使用人は全員が知っている。
夏侯元譲さまは、お優しい旦那さまだ。それに甘えていた。理嬢さまを物置に入れると知ったとき、自分を含む侍女たちは横を向いた。ただ唯一、明雪だけが従ったのだ。もちろん、不信が募った。「なにかお考えがあてのことなのだから」ごくわずかな迷いもなく言い切った。
先の大戦の前、夏侯惇から理嬢の世話を託された筆頭は明雪だった。そして、姿を消したのはだれにも予見できるはずもなく、明雪に非などあるわけがない。それでも背負ってしまうのが明雪だった。
「みんなが理嬢さまのことを懐かしんだりしないのは、あなたを想ってもあるんだよ」
「そんな」
「事情が事情だから、奥さまに内緒にしているのは正しいと思うけど」
清春はようやく野菜を籠から取り出した。あら、土がまだついているわ。甕から水をたらいに移し洗う。
「……………気を遣わせて申し訳ないわね」
「ほんとう、ここのお屋敷はお人好しばかりだ」
「まったくね」
「ちょっとずつでいいら、前みたいにのんびりな時に戻れればいいなと、清春は思うわけよ。その前に、私も明雪もお嫁に行っていなくなってるかもだけどね」
やめてちょうだい。明雪は肘で清春をつついた。
「抱えこまないでよね、明雪」
仕返しも込められているだろう、清春は平手で明雪の背を大げさに叩いた。
「あぶないじゃないの。刃が爪をかすったわっ」
「あら、ごめん。でもちょっと元気になったよね。感謝してよ」
悪びれることなく軽口で返す友人にあきれたが、友人と使用人仲間たちが慮ってくれていたとは驚いた。そして、ありがたい気持ちだ。
分かち合うことが大切なのかもしれないと、数日前の奥様とのやりとりが自然に口からついて出ていた。
「奥さまに、聞かれたわ」
「なにを?」
「雀さまは旦那さまと、どんな縁なのかって」
あと、奥さまも雀さまは美しい殿方に見えてそうよ。清春は興味を示さなかった。
「なんて答えたの?」
洗った野菜を別の籠にしまい、指先についた水滴を払いながら、清春は聞いた。
「知らない、って答えた」
「そりゃあ、そうだよね。実際のところ、雀さまのことなんにも知らないよね。気づいたら、理嬢さまの部屋に居るのだもん」
「本当ね。それとね、女の勘なのか、旦那さまのご様子に納得いかないよう」
「……………どういうこと?」
「眼差しがとおいのですって」
「よく、わからないけど……………」
明雪は野菜をすべて切り終え、鍋に水をそそぎ、火にかける。湯になるまでのあいだ、手が空く。
「つまり、あなたが言いたいのは」
「もしかしたら、奥さまは調べるつもりかもしれないと思うの」
「そうしたら、面倒ね。あれこれ訊ねられたとしたらどう説明したらいいか、わからないもの」
「話すつもり?」
「私は内緒にしてるっ」
「そうよね。みんな知らぬ存ぜぬで通すわよね」
なんでもかんでも話す義務はない。すくなくとも、明雪にはもともと教えるつもりもないが。
「私たちに訊くとは限らないのじゃない?それこそ、旦那さまに直接、訊ねればいいじゃない?」
「雀さまのことを、旦那さまに当たればいいものを、わざわざわたくしに訊ねてきたのよ」
「飛びすぎなような気がする。旦那さまに引っかかるとして、すぐ理嬢さまには辿り着かない」
「奥さまは、夏侯妙才さまともお知り合いなのよ。出どころは意外にたくさんあるわ」
「夏侯妙才さまって、よく喋る方?」
「陽気な方だったはずよ」
なんでもかんでも話してしまうような空気をまとっていると言えばそのとおりだ。
正妻杜玉玲の前夫は夏侯淵の部下だったし、仲人を務めたことから、距離は近いほうだろう。
「結局、秘密って、秘密じゃなくなるね」
「このお話はおわりにしましょうか。あなたの言うとおり、こぼれてしまいそうだから」
鍋の湯が噴き出しかけていた。あわてて野菜を突っ込むと、はじけそうだった湯の泡は沈んでいった。野菜のあつものの他に、なにをこしらえよう。侍女ふたりは食材をまえに、相談を始めた。