赤紅の傷痕U

□一
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「ほほう、なにがかな」

「跡目のことです。従兄上がご健在であられるのですから、まだ心配はありませんでしょうが」

「まあ、正直、決めかねてはいるが」

曹操は、珍しく深くため息をついた。

「人間、先はなにがあるかわからん。数年後、数ヵ月後、数日後、はたまた数刻後、生きている保証はないからな」

「気弱なことを」

「考えてはいるのだぞ?考えては」

「従兄上は慎重でいらっしゃるのですから、熟考されているとだれもが察しています」

「昂のことがよぎる。あれが生きていればとも思う」

曹操の長男曹昂は、正直言えば際立った才能はなかったように思う。しかし、人格は優れていた。

父曹操のように、切り開いていく器ではないにしろ、人心を掴み、統率する能力はあった。そして、後詰めを任せれば、曹昂がいるという安心もあったものだ。

「土台がしかと整っていれば、申し分なく跡を任せられるやつではあった」

新たに興す力はなくとも、託されたものをさらなる次代へ、たしかに託す。繋ぐ役割を担うに適していたはずだ。

だが、自分を犠牲にしすぎる節があり、事実、それは曹操を救い、曹丕を救い、自身は八つ裂きにされた。

「……………私がもっと早く着いていれば」

宛城の異変に夏侯惇たちが駆けつける途中で遭遇したのは、馬で駆けてくる少年曹丕だった。血塗れた手形がべったりついた着物を着た曹丕は、「兄上が馬に乗せてくれました」と言っていた。また、曹操の愛馬絶影が挫かれると曹昂は父に自分の馬を譲ったのだった。

曹昂は、父と弟を救ってみせた。

「いいや、我の油断だ。その油断があれも、その母も我から去った」

「もう十年近くになりますね」

「負けは痛いものだな。慣れんわ」

「慣れられては、困ります」

「もとより、慣れるつもりはない」

曹操はにやりと笑った。

「我は我の所業を次代に継がせたくないのが本音だ。この手の内を渡したくはない」

やはり、従兄上らしい。夏侯惇は呟いた。

漢帝国の腐敗によって黄巾の乱が起きたのを契機に、曹操は走り始めた。正しい世にしたい、正しいことをすれば正しい行いが還ってくる、悪を働けば悪により罰を受ける。正しいものが泣く世は狂っている。はじまりは、幼子のような純粋かつ無垢の黒か白しかない気持ちだった。自分がやらねばならないと思った。誰にも任せられない。

走りつづけたからこそ、曹操の勢力は大きくなった。引き返す時はとうに過ぎてしまっている。自分がやり始めたものは、すでに手のひらから溢れんばかりで、背負うにも潰されそうな重みでのしかかっている。

理想とする世を体現するにも、赤壁での大敗は非常に痛手であった。足の肉をごっそり喰い千切られた、剥き出しの骨を地に突き、ようやく立っているような心地でもある。

目指した世はまだ先だ。我が生きているうちに成しえるか否か。

できる。強気に答えようと、内心は唇を噛みちぎってしまいたくなる。

時が足りない。曹孟徳は五十四の齢だ。先を見なければならない、どこまでできるか考えねばならない、当たり前だ。だが、先を見る、暗い道を無理に照らす、向き合うことにざわつかせる怯えがあった。おまえは所詮、その程度の人間だ。嘲笑する自分の声がする。愚弄が曹操を焚きつけた。

とにかく、今すべきことは回復だ。

そして、漢帝国丞相曹孟徳は大敗ごときで尻尾を丸めてはいない、そう知らしめること。そのための銅雀台でもあった。国力の低下なぞ、どこ吹く風か。

厳かな楼閣は、国力の潤沢を大いに見せつけ、敵につけ入られる可能性を減らす。文字通りの防壁であった。さらに、味方や民衆にも曹操は余裕であると示すことは、おのれらの主に死角はないと解らせてやり人心に落ち着きをもたらしてやる。疑う余地を奪うのだ。

疲弊など無様をさらしてやるものか。

「夏侯惇、俺は必ずやり遂げてみせるぞ」











夫の身体は傷だらけだった。

無数の傷痕はとっくに腫れも赤みも引いている。肌の色に同化しているが、傷のかたちにふくらんでいた。

杜玉玲は初夜に夫の身体を視て怖気づいた。紅い灯りにほのかに包まれた肘から下が無い右腕の姿。端正な背中の一面に傷が散り、その中心は執拗に刻まれていた。

左眼のように、傷のひとつひとつになにかいわれがあるにちがいなかった。知りたい欲求がないわけではないが、直接、訊ねるには気が引けた。今、訊ねるものではないと、思うところもある。

赤と金糸でできた顔を覆う花嫁衣裳をめくられた。黒い瞳に、部屋の赤色がちらばっている。星のような黒色だった。「疲れてはいないか」初めてかけられた言葉に、張りつめたものが、ほぐれていく感じがした。

初夜である。すぐに緊張はやってくるが、二度目というのも手伝ったろう、新しい夫の手は自分を労り、優しさそのものに力が抜けた。

傷だらけの片腕に抱かれたとき、熱と恍惚で意識が飛びそうであった。すがりつくような愛撫に、いとおしさがあふれ、満たされるよろこびでこぼれてしまいそうだ。

抱かれ組み敷かれたとき、あたくしはこの方に愛されるのだと春の乙女のようにときめいた。そして、自分が畏れとともにこの肩を愛するのだと思った。予想どおり、玉玲は夏侯惇をいつくしんだ。

前の夫とのあいだには、ひとり息子をもうけた。息子が十の歳をすぎたころに、下級武官であり、頼もしくもった前夫は病にかかりあっという間に死んでしまった。義父母も実父母も早々に死別していた玉玲の後ろ盾となるものはなにもなかった。息子が夫を継ぐことは、息子の年齢がわずかに達しておらず、かなわなかった。貯蓄もいつまで保つのかもわからない。息をひそめるよう詰めた日々を過ごしていたそんな折、かの夏侯淵妙才から再婚の話を持ちかけられた。前夫の上官である将軍からいただいた機会を断る理由はどこにもなかった。それに、息子の将軍をかんがえるのならば是非と決意と覚悟をあらたにするところである。側室でも妾でもなんでもいい。このままでは路頭をさまよい息子にひもじい思いをさせてしまう。それは絶対に、避けなければならない……………。

しかし、その憂いも晴れることになる。息子は姓を改め、夫の姓である夏侯を名乗ることとなった。血のつながりがないことで、夫から敬遠されるのでは、もしそうであるのならどうにかして自分の手で安泰のために導いてやらねばという未来は杞憂に終わった。

夫は血のつながらない息子を邪険に扱うどころか、正式に嫡子として据えているようだ。また、書物を勧めたり学問の面倒を見てくれる時もある。玉玲は、ふたりが肩を並べ書物に向かっている様子を見かけるたびに安堵した。

夫は、自分にもやさしかった。表情は固く、漆黒にとじこめた悲愴をやどしているようなひとだが、ずいぶんこちらの身を案じてくれる。花があったからと摘んできてくれることもあれば、売っていたからと白玉の耳飾りを買ってきてくれたこともあった。

口数が少なく、冷静に人のかたちを与えたようなあのひとが、あどけない花を摘むすがたを想像すると噴き出してしまいそうになるぶん、たまらなく可愛らしいと思ってしまうし、切なくなってしまうのだった。日々、いとおしさが募ってゆくのを感じ、自分の決断はまちがいではなかった、最良すぎたと太陽に顔を向け誇らしく思うのだった。

愛されている。そう思える。だけれども、それは勘違いかもしれないと、ためらう時がある。

黒い星のような、夫の眼差しが一抹の不安を抱かせるのだった。自分に見えないものを見ようとしている素振りをする時を知っている。

また、屋敷のものたちの態度も玉玲の心にさざなみを立たせた。不快になるというわけではない、ただ、なにかを隠されている。知られないようにされている、謎に皮を被せているような気配を感じるのだ。はじめは、妻と言えど自分が新参者だから、使用人たちはこちらの出方をうかがっているのだろうかと思っていた。しかし、使用人たちの意識は、自分ではなく隠すことに向いているのではないかと、とある侍女とのやりとりから思うようになった。こちらの問いをはぐらかされているように感じたためだが、確証にはいたらない。それに、最近はぎこちなく感じていた空気が無くなりつつある。先の大きな戦と夫の負傷は知っていたから、ぎこちなさはそのためだと言われれば納得するところではある。

「玉玲」

「おかえりなさいませ、あなた」

出仕から戻ってきた夫を、妻は出迎えた。日が大きく傾き、暗くなり始めている。しかし、昨日よりも影が伸びるのは遅くなってきていた。

夏侯惇が歩くがままに、その後を従う。足がそのまま寝室に向いていると知るや、玉玲は侍女に水桶と布を用意させた。夫の身体を拭くためである。

外套を外し、衣を解いていく。

顔よりも少し薄い肌の色があらわになり、戦いをくぐりぬけてきたからだが玉玲の胸をしめつける。

埋めこまれた傷痕の上を玉玲は丁寧に拭った。背中を、肩を、脇腹を、胸も。

「お食事はいかがしますか?」

拭きながら、玉玲は訊ねた。

「いただこう」

玉玲はほほえんだ。耳に揺れる白玉の耳飾りが揺れ、きらりと小さくまたたいた。

「それは気に入ったのか」

「それとは、なんでしょう?」

「耳の飾りだ」

「とても。光りに照らすと虹が見えることもあります」

夏侯惇は衣を羽織った。玉玲が後ろの裾を整え、前にまわり、帯を締めてくれる。その間も、白玉の耳飾りはかすかに揺れていた。

居間の自分の椅子に腰かければ、見計らったように料理が湯気をあげて運ばれてくる。

盛りつけも華やかなものだった。やはり、作ったのは玉玲である。

「帰る時刻は伝えていなかったが、待たせてしまったか?」

「いいえ。同じ刻とはありませんが、夏侯惇さまがお帰りになるのはいつも、ほぼ決まっていますから」

夏侯惇が思うより、玉玲は新しい生活に順応しているようだ。

「私はいつも同じ頃合いに帰っているか?」

「ご存知ありませんでしたか?あたくしもつい最近、気づきましたのよ」

自分の隣に座った玉玲が、杯に酒をそそぐ。一口舐めると、舌に酒の甘味と苦味が引いた。

「市には出るのか?」

「おでかけは時々します。今日はお屋敷にずっといました」

考えすぎかもしれないが、夫の留守を狙っての不貞でも疑われているのだろうか。心にやましいことはなく堂々としていればいいのは分かっているが、夫に疑われてでもしたら嫌で嫌で仕方がない。玉玲は、お屋敷に、ずっとの言葉に力を込めた。

「刺繍をしていたのです」

事実だ。侍女たちと共に刺繍をして過ごしたのだ。

「市でお買い物もしようとは思いますが、その前に、お屋敷の方々が買ってきてくれていることが多くて」

「困ったことがあれば、自ら動くのもよいし、
使用人に任せる、どちらでもかまわん」

「はい、夏侯惇さま」

肉を食い、野菜を食う。汁物をすすり、酒を飲む。並べられた皿や椀が空になってきて、夏侯惇は玉玲と話をした。

「銅雀台を知っているか?」

「あの、作られている大きな建物ですわね?お屋敷からも見えますわ」

「従兄上から今後の企みをお聞きした」

「曹丞相さまから?どのような」

「教えてしまっては企みの意味がないだろう。楽しみにしているといい」

「予想がはかどってしまいますわね」

「おまえの料理の腕を話してな。興味を抱かれたらしい。近いうちに我が家へいらっしゃるやもしれん」

「あら、あら」

控えめに顔をゆるませているつもりだったが、子どもが喜ぶように玉玲の表情は明るくなった。初めて見る妻の顔だ。

「嬉しいのか」

「お客さまがいらっしゃるのですもの、腕が鳴りますわ」

「私は料理を作るのに疎い。まるで戦の前のようだ」

「あたくしの戦場は厨房ですから。だれかのために作る、喜んでもらえたらと思うと、より一層、気持ちに熱が入ります。もちろん、夏侯惇さまに召し上がっていただく夕餉にも」

夫に作ったものを食べてもらえるのが好きだ。

今夜の玉玲はとても気分が良かった。夫とは、婚姻から会話をしてきた。なんのとりとめのない話を覚えていてくれて、それを誰かに話してくれて、そして、なにか新しいことが起きようとしている。

幸せだと思う。穏やかな夜をこうして過ごせることが。

料理が並べられたときは多すぎて腹に収まるかと心配になったが、すべて夏侯惇の腹の中だ。玉玲は嬉しそうにしている。

「おまえは、量の配分も考えているのか?」

「戦場には軍師も必要ですもの」

しとやかな玉玲が、今夜は活き活きとしている。よほど客人に、いや、だれかに料理を振るうのが好きなのだろう。また、人と会うのも好きなのかもしれない。

呼ばれた侍女が空になった食器を運んでいくと、酒と杯だけが残った。

まただわ。夏侯惇の黒曜の瞳が、遠くを見つめている。杯にそそがれた水面を揺らし、眺めてはいるが、瞳の実が結ばれていない。このような癖なのだろうか。だがそれも、とても綺麗だと玉玲は眼差しに吐息をついた。
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