赤紅の傷痕U

□一
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夏侯惇は曹操のもとを訪れていた。理由は、雀(シャン)が兵卒を斬殺したためだった。誰にも見られていないと言う雀の言葉をそのまま受けとめるのならば、証拠が浅いので詮議はまぬがれるだろう。それに、雀が侮辱を受けたためにやむおえずおよんだとあらば弁解と酌量の余地はある。

しかし、雀に迫った人間が将直属の立場あるものであったなら上司たる将はいかなる事情だろうと失った部下について容易に納得はしまい。長坂での戦いや赤壁大戦での雀の振る舞いに不信を抱いているものは少なくないのだった。

長坂では夏侯惇自らが雀にさんざん打たれた姿をさらしてしまった。

聞かされた赤壁の話では、おぞましく化け物に変形した姿を、雀はしていたのだと言う。また、江陵では自分を血祭りに上げた雀の弟と間違われ地下牢につながれた。状況から雀への濡れ衣は晴れているものの、長坂と赤壁から「雀ならばやりかねない」という、いまだに疑いを持つものは多く、また濡れ衣を信じている者も少なからずいた。

雀のこととなると話が拗れやすくなるのは想像に難くない。

「夏侯惇、何用か」

「従兄上にお話しせねばならぬことがあります」

「にぎやかであれば歓迎だ」

「ご期待に添えられぬやもしれません」

赤壁の大戦以降、曹操の頭痛はよりひどくなったと人づてに聞いていた。

夏侯惇も実際に見たことがあるが、頭痛の発作が曹操を身体のなかから攻撃せしめ、痛みの激しさに操られるよう手当たり次第に物を投げ荒々しくなるのだった。そんなことをしても頭痛が治まるわけではないのを知っているが、どうしようもない苦痛は物を壊さずにはおれないのだという。

気絶したほうがましと、曹操がこぼしたこともある。

そんな曹操に煩わしさをかけるのは申し訳なかったが、軍の規律を乱したとして雀の首が刎ねられるのを避けるためだ。雀の事情が曹操の認識のうちに入っていれば、いたずらに兵を殺していると見なされないだろうという期待があった。

しかし、口を開き言葉にするのは胃が締めつけられる覚えがする。

「雀についてですが」

「よい、よい。言うまでもないな。そなたの用件の前に、我も訊ねたい」

「なんでしょうか」

「料理とはちがうが、はたまた食いものかどうか?」

「はい?」

「狂犬の挽き肉の味はいかがなものだろうな?」

「……………」

「我の目と耳が教えてくれた」

曹操は首をまわし、居直した。

「そもそもな、あやつの言い分を真に受けるのか?虚言である可能性もあるだろう。爪が甘い。我の目と耳に感謝してほしい」

「……………返す言葉もございません」

「そなたも難儀よなあ。わざわざ報告に来るとは。まあ、関心すべきだろうが。やつの手際は熟練の目と耳どもが感嘆するほど、鮮やかだったそうだ。つまり、秘密裏に事を運んだということだな」

口ぶりから察するに、怒りを持っているわけではなさそうだ。

「雀が勝手な動きをしでかしてしまい申し訳ありません。従兄上の手足である兵卒を私情により手打ちにしていまい……………」

「遊びでいたずらに殺したわけではないと報告を受けている。あの容姿でなら、今後もありそうだが?」

「厳しくいいつけました。私も、目を光らせます」

「まあ、今回は不問にしてやるつもりだった」

「お許しになるのですか、従兄上」

「そう固くならずともいい。まあ、自分の名誉を守るためとはいえ、次はどうなるかは知らんがな。今、あやつはどうしている?」

「謹慎を命じてあります」

屋敷から出るなと言いつけてある。ここへ来る前に雀の不満な顔を確認してきたので、間違いはない。

「夏侯惇、やつにはいつでも我の監視をつけている」

「いつからでしょうか」

「赤壁から戻ってすぐだ。あれはとりあえず恭順の意を示してはいるが……………他人に仕える気概は微塵にも持たぬ類の輩だ」

他人に仕える気概は一切ない。夏侯惇も同じ意見だ。現在、夏侯惇に従っているのは忠誠ではなく、雀の依存によるものだ。そして、夏侯惇はそれを利用している。

「それに、将のひとりが手堅く打ちのめされてしまっては看過なんぞできぬ」

「江陵での一件に雀は関係ありません」

「江陵でなくとも、長坂での仕打ちが残っている。現に、我も刃を向けられた。冤罪をこうむったのは、哀れだ。だがな、やつへの不信は消えたわけではない。そなたはたいそう不満やもしれんが、承知せよ。信を寄せられたいのなら、とにかく役に立たせてみることだ。殺しが得意なのは十二分に知っている。上手く手綱をとってやれ」

「雀の弱みは私です。従兄上が命じられれば、私の口から伝えましょう。必ずや、従兄上のために働かせます」

「存分な庇いだてをする、そこまでの価値があれにあるのか?」

「雀の力は常人を超えています。従兄上の力になると思うからこそ」

「殺ししか能のない、忠誠の片鱗も無いに等しい輩が?夏侯惇、そなたが連れてくる者たちは芯の通った逸材ばかりだった。並べられては困る」

夏侯惇は口を噤んだ。

「夏侯淵もそなたの身を案じていた。たしかに、どうしようもなく憑りつかれている顔をしているな」

「理嬢に憑りつかれている、そうおっしゃりますか?」

「理嬢だと?なにかだと言っておらんだろう。しかし、すぐその名が出てくるとなると、貴様がはまっているのは理嬢のすがたをした妄執であるにちがいない。だから、雀に肩入れするのだ」

「肩入れなどと、そのようなことは……………」

「あやつ、どうにもすさんだ顔つきになったが、理である色は褪せておらんよな。雀とは利害が一致しているためにそばに置いているのだそうな?」

「おっしゃるとおりです」

「そなたらに首を突っ込む気はない。女ひとりの生死に揺るがぬなとは言わぬが、気をやりすぎて病むなどということにはないようにな」

「まことに、ひどいでしょうか」

「ひどい。夏侯淵に訊いていた以上だ。いいか、そなたは我が挙兵した時から我に従い、苦楽を共にした武将がひとりだ。そのような者が沈んでいては、下の者らがおぼつかぬ」

曹操は、今日初めて眉をしかめた。

「周囲に察せられるな。つねに、泰然をまとえ。……………おいおい、我は責めているのではないのだぞ。立場をわきまえろと言っている」

「従兄上のおっしゃりたいことは、わかっているつもりです」

「我もな、そなたの気持ちがわからんでもない。手からすべり落ちたものをいつまでも愛でていれば、足が前に進まなくなるぞ」

一段、曹操の声は低く険しいものとなった。

「夏侯惇、我はそなたを信じる。信を置くゆえ、雀を我のために役立たせろよ」

最後の猶予であり、警告でもあった。二度目はない。次に、曹操の耳に雀の名が届くのは、使いどころがあると、有用であると知らされる時だけだ。

ふと、曹操の表情が幼い弟分を慮る従兄になった。

「まあ、いいさ。来い、夏侯惇」

曹操は椅子から立ち上がると、手招きをしながら外へ出て行った。居室のすぐ外へ出られるつくりになっていて、広い庭を眺めることができた。夏侯惇がつづくと、曹操は立ち止まって空を眺めている。曹操の視線の先には、途中と言えど壮大な存在感を漂わせる楼閣があった。

「銅雀台だ、ようやくここまで進んだ」

十二丈(約三十メートル)の高さがある宮殿である。層は全部で五層もできる予定だ。

銅雀台と言う名の由来は、誰が言い出したか、曹操が胡国の奇妙な商人から生きている銅の雀を買ったからだとか、輝くすずめたちが円をつくり舞を踊っていると鳳凰が降臨した夢を視たからだと、優雅な逸話が流れている。

噂自体は曹操も気に入っており、そういうことにしておけと咎めない。人が言葉を変え意味を変え伝えるのだから、長い尾ひれをたなびかせる。そのうちに新たな十色の説が聞けるだろう。

「人殺しもなりをひそめたな、もうだれも口にせん」

ああ、そうだった。銅雀台の造営は一時期、造る手を止めていた。いや、止めざるをえなかった。業の都を騒がせていた雲のように消え現れる殺人者は、かつて銅雀台の資材を血肉まみれにし使い物にならなくした。曹孟徳の奥殿を惨いほどに荒らしたのを最後に忽然と失せたのであった。殺人者の真相は謎に包まれたままだ。ただひとり、夏侯惇を除いて。

殺人者の手並みのよさから、もしやとある将の子飼いがそうなのではないかと軍の者たちのあいだで、まことしやかにささやかれてはいるが、下火になりつつある。

夏侯惇はなにも言えなかった。あまり、思い出したくない記憶である。

「落成式には我が子らも呼び、諸侯とその妻らも呼び、しょうしょうはでな宴を盛り上げようかと企んでいる。どうだ?」

「よろしいのではないでしょうか。活力と鋭気を養う場にもなるでしょう」

「そなた、奥方はどうなのだ。息災か」

「仲は悪くはない、と思います。妻はよくやっていますよ」

夏侯惇の身の回りの世話をするために、こまやかに杜玉玲は動く。こちらの様子や顔色を気にしすぎているふうもあるが、わずらわしいことはない。

「料理も手ずから用意してくれます」

食べるものを作るのが好きだと言っていた。肉や魚、野菜の食材が、食材に合ううまさに焼いたり煮たりするさまを見計らったり、皿に盛る見映えの工夫を考えたりするのが楽しいのだそうだ。

「美味いのか?」

「はい。肉を焼く具合が絶妙です」

「ならば一度、我もあやかりたいものだ」

「どうぞ、おいでください。妻も張り切るでしょう」

曹操は不意に笑い出した。

「夏侯惇と妻だのとこうして話すようになるとはな。そなたの口から奥方の話題が出るのも、なんだかこそばゆい」

妻など娶らなくともいい、そう思っていた頃がある。時が経っている。婚姻をしてから変わったことは、とくに無かった。妻と息子ができただけで、夏侯惇が背負わされた荷はほとんど変わらない。だから、婚姻を良かっただろうと問われても、良いことも悪いこともないので、頷くことはなかった。

「華燭の宴も、ずいぶん前だったな」

ずいぶん前と言うが、赤壁から戻ってすぐのことだ。時の感じ方がどこかずれている。頭と心が共鳴していない。

「子も成すであろう。そなたに似た男子か、女子が」

「さあ、どうでしょう」

「乗り気ではないのか、冷めたところ、そなたらしいが」

「連れ子がいます。すでに嫡男として定めています」

「有能か?」

「可もなく不可もありません」

「使えそうかな?」

「才、人柄ともに別段これと言ったものはありませんね。すべてまあまあの及第点です」

「だのに後継か。もったいない」

「才あるものを望むのであれば、淵の息子たちからひとり、養子にもらいましょう」

「いやいや、そなたの肚が決まっているのなら、もう我が口を出すことではなかろうて」

「私の跡取りなど、誰であろうとかまいません」

「次子が産まれよう?」

閨をともにし、交われば子は宿る。

子ができようができまいが夏侯惇の関心は向いていなかった。跡取りができた以上、さらに子が必要とも思えない。

「血がつながっているか否かだけです。それが有能とは限りません。私は嫡男に大それた能力を求めていません。しかし、曹孟徳への心構えだけはきちんと躾けねばなりませんね」

「お堅いことだ」

「従兄上、あなたこそ、そろそろ気に病む時期ではないのですか?」
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