赤紅の傷痕U

□四
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もう二度と出会うこともないでしょう。と思いながら溜飲下らぬ疑問と苛立ちをかかえていれば、すれちがった侍女仲間に「伯約が来たわよ」とたいそうおどろいたふうに声をかけられた。「そうみたいね」知っているわ。簡単に相槌を打てば、「お茶の準備をはやくしなくちゃ」なぜか興奮気味で、すこしあきれて「いそがなくてもよいはずよ」と忠告してあげる。

なにを焦る必要があるのか。かつての使用人が戻ってきただけではないか。

いや。戻ってきたわけではない、客として来たのだ。姜維はもう使用人ではない。曹丞相にお仕えする武官のひとりなのだ。出て行った姜維にこのお屋敷での居場所はとうにない。明雪をふくめ、仕えている身であるものたちにとってはこのお屋敷は帰る場所でもある。だけど、姜維はみずからそれを取り壊したのである。

たかが姜維なんかに、茶など出そうものか。さきほどの侍女仲間のようにだれかがなにやらかにやら走るだろう。

片付けなければならない雑務をすでに終えている明雪は、久々のにぎわいをかもす光景を少し宙から眺めているようだった。

お客様とあらば屋敷の主人の大事な御方だろうから気を張り詰め背筋を正し、たとえお茶を係りでなかろうと緩みを許さない。しかし、今日はどうだ。どうでもいい武官さまなど有りはしなかった。

姜維が世話をしていた庭。あれから専門に携わる者はいなかった。その代わり生業にするものを呼んだり、手の空いたものが手入れをしていたのだった。

花にはすがたの可憐さから宿る気がするが、草にも木にも心があるのだろうか。素人の目にも、姜維は庭の手入れが上手だった。きっと、よろこんでもらいたい人がいたから注ぐに力が入っていたろうが、それだけではあるまい。声を聴けるのかと思うほど、豊かにする力を持っていた。

侍女仲間たちが祭り前のように、控えめではあるが高い声ではしゃぎ合っている。前に居たものが帰ってきた、雰囲気を変えて。懐かしい気持ちがさらに気持ちを囃し立てるらしく、気安い客人としているのか元譲さまの書斎の前でも取り繕う様子もない。明雪は盛大にひとつため息をついた。みっともない。あの武官さまはもう元譲さまのお客様なのだから、と注意する気にもならない。だれかがするだろう。

きっと、あの武官の噂で数日は持ちきりになる。奥さまにもなにか問われるだろうか。まったくもって憂鬱だ。
明雪は庭を歩いた。なんとなく奥まった場所へと足が向かっていた。実は以前に大きな赤い花が咲いていたのを知っていた。一輪ひっそり咲いているのを見つけたのだ。種がどこからか飛んできたのか、その花は深い赤色で光と方向によってはきめ細かにきらめく鮮やかな赤色だった。

偶然が重なって芽吹いたのか、姜維が植えたのかはどちらでもいい。視ていたくてひそかに足を運んでいたのだ。

また、木の枝も葉も下の草も伸び放題になっている。成長が早いから油断するとこのお屋敷が森にでもなってしまいそうだ。

そう。このあたり。ちょうどここに咲いていた。

なにも考えずなにも感じずに空にしていると、背後で枝を踏む音がした。あの夜の回廊を思い出し勢いよく振り向けば、碧の瞳を大きくした姜維が立っていた。

「ここでなにをしているんです」

「べつに、なにもしていないわ」

「そうですか」

雀(シャン)であったほうが、ましだった。

「お屋敷も変わりましたね」

「あなたほどではないわ」

「元譲さまが奥さまを娶られたとは知っていました。それに、知らない人も居て知っていた人がいなくなっている」

だれのことを言っているのかなんぞ、すぐ察しがついた。

「理嬢さまが居られた痕跡がありませんね」

急に頭に血が昇って行くのがわかった。

「代わりにあの方がいらっしゃる、雀(シャン)とおっしゃいましたか」

「あのひとは理嬢さまの代わりなんかじゃなくてよ」

代わりだったら、代わりだったら、きっと元譲さまは、きっと、もっと、もうすこし、お心を、平穏を、保たれて、いるはず、なのだから。

「私には代わりに思えます。いや、乗っ取ったみたいですね。まあ、もうあまり関係ありませんが。明雪さまは雀さまをいかに思われますか?」

「そうね、とくに」

「方々は、とにかく美しいと口々に申します。そうですね、いくら顔が理嬢さまでもあのひとにはよくわからない謎の美しさがあります。明雪さま、あまり雀さまにお近づきになりませんように」

「警告かしら」

「あのひとは少々狂っておいでだから」

「……………望んでお身体を痛めつけているとか、かしら?」

「よくご存知ですね」

「どんな噂もどこから耳に入るのかわかったものじゃないわね」

沈黙。

噂はどこから流れてくるかわからない。そう、その通り。真実を、本当のことを知るには自分から動くしかない。
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