赤紅の傷痕U
□四
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静寂の夜が去ると、どこか影のある爽快な晴れが広がった。何度もおなじ夜とおなじ朝がくりかえされるなか、あるひとりが夏侯邸の門をくぐった。主へのお目通りと目的の旨を一番最初に聞いたのは明雪であった。
「ひさしぶりね、姜維」
姜維は記憶にあるすがたよりも、はるかに様相を異なっていた。
目つきは明るさを失い、落ち着いたというよりも沈み、怒りをつねにおさえこんでいる。そんな色だ。
「あなたも、お変わりなく、明雪さま」
「どんな御用かしら?」
「元譲さまは居られますか」
「居らっしゃるわ。どうしたの、元譲さまに」
「このたび故郷に、いえ、天水の地にて任を司ることになりましたので、ご報告を」
「栄転ね」
「ありがとうございます」
「褒めたわけではないのよ、勘違いしないでちょうだい」
「では、どのようなおつもりだったのでしょうか?」
「御自身で考えあそばせ」
姜維はただ軽く会釈をして明雪の横を通り抜けた。
このお屋敷に行儀見習いとして住み、庭師としても夏侯元譲に仕え、遊び相手としても理嬢に仕えた。
明雪と姜維は同じくらいの歳であったが、仕える年数は明雪のほうが断然長い。
金糸の髪に碧の瞳。異国にはあるであろう風貌をもつ少年は、明雪が見つめたようにだれかを見つめていた。このお屋敷に居るものならば、誰でもその先を知っているのではないかと思う。明雪が姜維と特別な親交を持っていたわけではない。好意やなにかしらの情もあるわけもなく、ただ使用人仲間としか映ってはいなかった。しかし、碧眼の先を知っているこの聡明かつ思慮深き賢女はほほえましく必要とあらば少しだけ背を押してやろうとも思っていた。周知のどおり、理嬢はかの曹丞相の側室になられる身であり、お屋敷に居るのは仮宿のようなものだった。結末はとうに出されている。しかしながら、それでも見守らずにいられようか。過ぎゆく流れでともに生きたという思い出は、移りゆかぬ強いものである。明雪は信じていた。
だが、姜維は理嬢が去ったのち、曹丞相の長子である曹子桓さまに付きお屋敷を出て行った。
信じられないことだった。
どういう意図があって、考えがあって、その結果を出したのだろう。
想いがあるのであれば踏みとどまるべきではなかったのか。なぜ去るなどと言うことができるのだろうか。明雪が明雪以外のなにものにもなれない、だから姜維の胸中を知ることはできない。
できないでもだ、この裏切られたと思う感情を変えることはできない、ゆるせないとさえ思うのだ。
曹丞相の御側室になられてから、すぐにまたこのお屋敷へ一時とはいえ戻ってこられたのに。きっと、姜維は知らないにちがいない。心を弱らせていたことも、姿を消してしまったことも。