赤紅の傷痕U
□三
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頭の上から、はるか遠くから水晶を溶かした粒がひっきりなしにしたってくる。
髪の先から鼻の先からあごのさきからふたたび粒になり地面に落ちるそれは土のなかで眠り本来のすがたへと戻る。そして、人間により掘り出され空に昇り、くりかえされる。
水晶の成り損ないたちの声は妙にさびしげで暗い。やかましく、不愉快だ。
身体のなかが靄のようにぼんやりとやわらかく灰色にひろがっている。ぼうっとする。
紅い眼にはなにも映ってはいなかった。いや、映ってはいないと言うと語弊がある。正確には、意に入れず本能のままに目の前のすべてを分別しているだけだった。
草、木、土、柱、屋根、瓦、欄干、石壇、人間。
人間には大きな分類があり、それは大切なものとどうでもいいものだった。自分にとって価値あるもの、価値なきもの。いま雀(シャン)には、無くていいもののほうが圧倒的に多かった。価値あるものを守るためならば、自身の身体がいくら傷つこうともかまわなかった。たったひとりだけの肉体があまたの傷痕に埋めつくされたとしてもだれも悲しみにくれたりなどしない。この傷痕どもが大切なものの関心をひくことない。それでよかった。雀は気を引こうと刃を受けつづけているわけではないのだ。
血の香りがない場所、痛みのない場所、そこでなければ俺は生きていられない。そう、俺は生きるためにその場所へ還ろうと決めたのだ。見つけた居は心が安らぎ生まれる前のすがたでずっと眠っていたいと願うほどいとおしかったが、新たな利と害ゆえに離れることとなった。望まないわけではない、望む意味が無くなったのだ。
最近、探る意識を感じる。女である。
直接、言葉を交わしたことは一度もないが、同じ箱庭にいるのだから指で数えられるくらいにはすれちがったことがある。
目元は涼しげで、そう、たとえるのなら雪のようだ。凛と背筋がのびたあの女。たしか、理の世話をしていたはずだ。その女が自分を視つめてくる。殺意と欲ならば敏感に察知できるが、女はどちらでもない。何かを知りたがっている、それも切実に思いつめた、または羨望のような。
ほっといておくしか結論が出せなかったが、あの眼はいささかうっとおしい。自分はすべてを悟りきっています、小生意気なことを押しつけられているようで不快なのだ。
なにが言いたい、そのくちびるで。お高く止まっている女、馬鹿にされているようで不愉快だ。
だから、俺は不本意ながらも問い質してみることにした。
女は息を止めた。
宵の口頃、小さな灯りを持っている女の背後に胴をしっかり付けて後ろから抱えこんだ。脇の下をもぐりななめ腰をつかみ、声を出されては面倒だから四本の指で首を軽く握る。
「……………ごようで、ございますか」
肩口からの顔でも十分整っている。声音はふるえていないが、指の腹で感じる触れに、女が怖じ気ついているのがわかる。
「なんで俺を視るの」
「は?」
「そんなのすぐに気付くよ。なあに?御用があるのそっちだろうが」
女は考えこんでいるようだ。暇だったので、灯りを吹き消す。夜の生き物どもが活き活きとするざわめきがさんざめいた。
「聞きたいことがあったら、聞けばいいじゃない。俺、あんたの眼が嫌い」
「この状態をといてくださりませんか?」
「たずねているのは俺なんだけどな。失礼なんじゃないの?」
「女人にこのような狼藉をはたらく殿方こそ無礼ではありませんか」
首の脈動は正直だ。しかし、声音は刃にやどる雪の結晶のように鋭い。ますます雀の気をねじ曲げた。
「ああ、そんなこと心配してるの。俺、あんたに興味なんかこれっぽっちもないの、ばかめ。すぐに殺してもかまわない害虫然とした人間どもといっしょにしないでくれるか。殺したくなる」
指に力がこもる。この女の首をこのまま引っこ抜いてもいいだろうか。
「その前に舌を噛み自害いたしましょう」
「へえ、そんなことできるの」
「殺そうと思う人間に自ら死なれてしまうお気持ちを察すれば、さぞ不興でしょうね」
伝わる脈動がもとの位置にもどっているようだ。空にあふれる気を感じて、ざわめきが音大きくひしめく。強気で言っているのではない、そんな声音だった。あ、そういうところ、夏侯惇にちょっと似ているのかもそれない。
夏侯惇、思いがけずそのすがたが浮かぶとこんな女さっさと捨てて夏侯惇のもとへ駆け出したくなった。
「ああ、おもしろくないし、くやしいね。よくわかっているね」
「ではいかがなさいます」
「まだ質問に答えていない。だから、あんたはまだ死ねない」
「離してくだされば、考えてさしあげてもよろしいですわ」
「かんがえてもよい、言い方が狡猾だ。言うと言え」
「約束はできません。このような無体なまねをされておいてやすやすと結ぶとお思いですか」
「たしかに、そうだ」
まあ、この女の言い分に一理ないわけではない。どの時代でもどこの国でも女が男に心を許す範囲は狭いのだから。
雀は首にあった手を下ろした。
「俺はあんたが懸念しているようなことはしない。でもね、離したとして、逃げるんじゃないかという疑惑があるからもう一本の腕はこのままだよ」
「あなたがわたくしに疑惑ですって?」
「逃げて、大声で、手ごめにされかけたとか有りもしない口上をつぎつぎに走られるのは御免だよ」
女は鼻を鳴らした。かすかにうごいた横顔があきらかにこちらを馬鹿にしていた。
明雪は使用人としても個としても義理堅く責任を負う意味の強さを知っていた。かわした約束を反故にする、それは考えられぬことであった。約束とは重いもの、言葉とこころの枷である。雀はそんなことも知らないでいるのか。自分を軽んじられたことへの反発、自分に疑いを持たれたことに対しての抵抗が我慢できなかった。
「このお屋敷にいる人間はだれひとりとして交わした約束を吐き捨てるなどいたしません」
「へえ」
「それは一重に、主である夏侯元譲さまの御人柄も相まってのことですから」
あ、また。夏侯惇だ。この女、夏侯惇、夏侯惇。やっぱり気に入らないな、すこし、やっつけてやろうか。
「じゃあ、信じてあげる。話がしたいんだ、こっちを向いて」
雀は二、三歩退がった。明雪はやつが退いたのを感じると向き合った。
うつくしいひと。夜の青が男の薄情なうつくしさを影として際立たせている。
「あんた、さっき約束って言ったけど、破ったじゃない」
女。聡明そうな顔立ちで美人だと思う。背筋がすっと通っているし、肌は白い。吹き散らされる雪の冷たさが眼に宿っているようだ。
「わたくしが?」
「夏侯惇に頼まれていただろ。よろしく、頼むって。理は、どこだ」
あ、そっか。雀の残酷なくちびるを明雪は熱を含ませ美眉を寄せる。白かった顔が首まで赤くなった。あ、そっか。蠢く嗤いが腹をくすぐる。あ、そっか。
この女は、知らないことを知りたかったのか。
「わたくしを、わたくしを愚弄するおつもりですか」
頭のなかで目の前の男が放った声と元譲さまのお言葉が打ち鳴らす鐘のごとく反芻する。
「まさか。あんたがまちがいを言うから正してやっただけだ」
言い返せなかった。明雪は拳を握りしめた。視線を紅い瞳から外さなかったのは意地でもあった。負けてなるものか、甘く視られてなるものか、軽んじられてなるものか。あきらかな怒りが自分を支配していくのがわかる。