赤紅の傷痕U

□二
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夏侯惇のもとに妻がやってきた。そして、杜の姓を改めた息子ができた。

金細工がほどこされた真赤のかぶり布をめくると、さっぱりした女がいた。刹那、頭のなかにかすめる粒がひるがえった。

我が妻。名は、杜玉玲。

赤い帳のまぶしさは、夏侯惇の瞳をかげらせた。歓声の中心で、気持ちだけが屋敷の外へと飛んでゆく。めでたい。だれもが手を叩いた。めでたい。あの従兄上も、自分を祝福してくれた。めでたい。きょうはよき日和である。紅い帳、紅い敷布、紅い花、紅い壁掛け、紅い衣装、花嫁のくちびるにぬられた紅い化粧、目元にうっすらひかれた紅い化粧、祝福にもっともふさわしい色が、紅い、紅い、紅い、紅い……………。

古くから伝わる婚儀をつつがなく淡々とこなし、夫婦としての契りを結んだ。何組もの夫婦がそうしてきたように、赤にしつらえられた寝台の上で、夫は妻を押し倒し、妻は夫に組み敷かれたのだった。

夏侯惇が女体と交わったのは初めてではなかったが、最後に抱いたのは、いつだっただろうかとぼんやり思った。女があえいでいた。どこか他人事で、紅潮した顔をまじまじと観た。女の香りと、女の白い肌。白い肌の下にある赤い敷布が血のように伸びている……………いとしいそんざい……………。

夏侯惇は妙な感覚に襲われた。

いとしいそんざいが、いとしきそんざいになるはずの妻の顔にかさなって、宙にうすくうかびあがった。

……………理。

夏侯惇の息は、たしかにその名を描いた。ここにいたのか。いや、ちがう。しっかりとすがたかたちをとらえる前に理嬢は消えゆ。

玉玲が理嬢と似ているわけではない。それどころか、面影のかけらさえもない。しかし、理がおぼろに居た。

抱くたびに、夏侯惇は理嬢に逢った。……………逢ったと言っていいものだろうか。まぼろしでしかない影を追いたいだけではないのか、隻眼の瞳で捕らえられぬものを捕らえたいがために。

居ないはずなのに、どうしてここに居るのだ。理。そう呼びかけようとすると、理が消える。気のせいか、するとまた理が浮かぶ。視線を合わせようとしてもたちまち消え失せてしまうのだった。

実体なき理はまるで靄で、夏侯惇からのがれてしまう。

夏侯惇は冷えきっていた。やれ、と言いつけられた子どものように花嫁をかき抱いた。満たされない。女を抱いて満たされるものはあるのだろうか。飢えでも渇きでもない空虚を埋める在り処を、夏侯惇は知っていた。それが、さきほど起きたものではないとわかっていた。しかし、一瞬の出来事をのぞんでいた。

初夜に気付いた。花嫁を、いや、女を抱くと理嬢との逢瀬がやってくる。夏侯惇はむごたらしい気分になった。妻をよこしまな目的で利用している嫌悪に苛まれてしまう。だが、拭い去ろうなどと感じなかった。抱いているあいだ、不安定な高揚とがむしゃらに手に入れたい優しさがせめぎあった。理。

そして、ほんとうに理が近くにいるのではないかと、探さずにはいられなくなる。むなしいこととわかっていながら、夏侯惇は何度も何度もくりかえした。

寝台から妻を残し、降りた。

羽織も肩にかけぬまま、庭を歩いた。空は凛とした音が聞こえてきそうなほど寒い。もとより熱があったわけではないので、空が身に染みる。

どこへ行くあてもなく足を進めると、いつのまにか石畳から芝生へと変わっていた。池のすぐそばの荒れた物置。

ああ、そうだった。従兄上から戻された理を、俺はここに閉じ込めたのだった。

手が扉にかかりかけていた。理はこの物置のなかに居るはずだった。心が弱った理は幼く「夏侯惇さま」、声。やはり、おまえは……………。……………こんなところにいた。……………俺は理をずっとひとりにさせていた。……………すまない、ただいま。いま、帰ってきた。

強い風が吹いた。夏侯惇の長い黒髪が一気にはためき、ねがいにも似た妄想をかき消した。

扉に手を添え、あのときの自分を思い出す。俺は、どうしていたのだろうか。ごく当たり前のように、ここを開けていたのだろうか。心を互いに通じあわせたのは、いつもの自分の部屋だった。しかし、華燭を祝う華々しい赤によって、塗りつぶされた。そして、いまはもう、あそこに理嬢の面影をおいておくことはできない。

理が居ない。どこにも居ない。居なくなった。

夏侯惇は、理嬢をさがしていた。

池のそばへ行く。理嬢を追って飛びこんだ水面はおだやかで、波紋が無いだけでなく、水と水がこすれる音もない。

残った手で水面を破った。あの白く細い指がゆびにからみつく、はずがない。染み入る冷たさとたわむれた。

夏侯惇は理嬢をさがしていた。

柱の影から、花壇の返照のなかから、中庭の木洩れ日から、ひらめく帳から「夏侯惇さま」。そうやってひょっこり現れてくれるのではないか。かくれんぼうでもしているのではないか。 

屋敷に戻り、門をくぐれば「おかえりなさい」聞き慣れた声とともに、出迎えてくれるのではないか。

夏侯惇は、理嬢をさがしていたが、影ひとつ見つからなかった。

一縷の望みがいつも夏侯惇をはやしたて、夕陽が音も無く落ちていくのをとがめるような気持ちが、決しても消しても力を増していく。

理嬢が死んだから、俺は面影を追っているのか?致命的な問いが自分から振りかかる。なにを言う。なにを言う。理が死んだ?嘘だ。どこから俺がそんな嘘を持ちだした。

私は泣いていない。

愛しいものが居なくなったとき、ひとは涙するはずだ。

私は見ていないのだ。感じてもいない。理が命を離すのを。

生きている。私が信じなければ、理は、もう二度と笑ってはくれまい……………。

江陵から屋敷へ帰還したとき、明雪は目元に大きな青色をつくっていた。理嬢が忽然と居なくなったと早口で途中まで述べ、地面に手をつき、額を叩きつけた。

やめろ。あまりにも激しく叩きつけたために、血を噴いていた。止めてもなお、明雪はかたくなに額を地にこすりつけようとする。愚直なほど尽くしている明雪にとって、理嬢が失踪したのは自分のせい以外に考えられなかったのだろう。しかし、それはちがう。

泣きながら取り乱す明雪の指先はひどくかじかんでいた。明雪、落ちつきなさい。

夏侯惇は明雪だけには自分が知った一部を話した。しかしながら、この娘はいつか真実を抱えこんでしまうのではないか。漠然とした予想が夏侯惇に宿った。

明雪の瞳が芯を失い、白くかげっていった。

雀が言うには、理嬢は死んだと。だが、私はそうは思わない。右肩から垂れる外套をはずしたとき、明雪は卒倒した。





遠くの空が淡く萌えはじめ、夏侯惇は妻のもとへ戻ろうとした。明雪が回廊で立っていた。

明雪は、夏侯惇の後ろすがたをずっと見ていたのだった。明雪がまとうすずやかな気は、波に細かく乱れている。

おはようございます。とも言えぬまま、明雪は唇をわななかせた。舌が内で縛られてしまう。胸が灼けついて、身体じゅうの血潮が爆ぜそうだ。

「朝餉の仕度か。ご苦労」

夏侯惇は明雪が知る声音で言った。どこも変わりがない様子で横を通る。そして、主人の気配が奥へ行ってしまうと明雪は弾かれるように階の段を飛び降りて庭を走った。どこへ行くともないが走った。大声を上げてこの身をかきしだきたかった。狂人と言われてもかまわない。いや、むしろ狂ってしまえたらどれほど楽になれるだろう。明雪は唸った。それはかぼそく風が吹けばかき消されてしまうくらい弱々しかった。
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