赤紅の傷痕U
□一
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裕福ではないが、生きるためにはなんの苦労もいらない屋敷での生活が始まった。
新しい主はひょうひょうとしていて、礼儀も作法にも関心がなかった。目の前であくびをしても、無駄口をたたいても、どんな粗相をしたって決して怒らない。「屋敷のお姫さまの世話をしてくれればいい。あとはあんたの好きなようにしていいよ」といった具合だ。いままでいたところにくらべたら、なんて言えばいいんだろう。言葉が見つからない。言葉が見つからないほど、おだやかでやさしい。夢じゃないのかなんて思って、何度も頬をつねったりしたけれど、やはり夢ではなかった。また、けたけた笑われた。
男の名前は、雛さまと言った。
女の名前は、理嬢さまと言った。
理嬢さまは、雛さまと同じお顔をしていたけど、のんびりしていてどこかほうっとしたひとだった。年齢のわりには、自分よりもずいぶん幼くもあって、危なっかしい。このまえだって、お庭の木に登って、困らされた。
「あそこに鳥の巣があるでしょう?卵がないか気になったの。それで、かこうとんさまにご覧になっていただこうと思って。でもね、だいじょうぶよ。心配しないで、窈。前は落っこちたけれど、もう失敗しないわ。ね?」……………こんな突拍子のないことをする。だいじょうぶったって、信用できるか。話によれば、そのときは頭を怪我したそうではないか。まったく、もう。
だけれど、とてもおだやかで親切だった。いろんなことを知っていて、ここの言葉や、歌、おとぎばなしを教えてくれた。妙に上品ぶった高慢さがないこのひとといるのは、楽しい。
そしてもうひとり、住人がいた。自分よりちょっと年上の少年で、名を月郎と言った。雛さまと理嬢さまはこいつを「小月(シャオユエ)」と呼んでいる。少年はびくびくと気弱で、窈から見たらとんと頼りない。なよなよしたところをよく目にするのだが、そのたびに尻を蹴飛ばしてやりたくなってしまう。だが、こいつは理嬢さまの大切な世話人だから、我慢せねばならない。とにかく、いらいらさせられるが、料理と掃除が上手なのが長所だ。これは認めているし、窈も教わっている。
とまあ、一度蹴り飛ばしてやったら、理嬢さまにとんと怒られた。女の子が乱暴をしちゃだめ。言っていることはわかるのだけど、やるときはきっちりやらないとだめだと思う。男だからとか女だからとか、それはやっぱりちがうよ。
月郎には医術の心得があった。
理嬢さまにはお医者さまが必要だった。
理嬢さまは怪我をする。
ある日。日課であるお昼寝をしていると思い、寝台の帳をちらりとめくってみると包丁で切ったような傷からどくどく血を流して眠っていた。お世話をしているとき、お食事をしているとき、お湯を浴びているとき、なんの前触れもなくやってくる。
さっき、包丁でなんて言ったけどそんなのじゃない。もっと痛い。もっと鋭くて。もっとこわいもので切られたような。
どうしてこんなことがあるんだろう。月郎もわからないって。窈は、近くに怖いなにかがいるのではないかと、とても怖かった。でも、そいつは窈が竹の棒を持って怒っていてもやってくる。
はじめて理嬢さまが血を流したとき、月郎が理嬢さまの手当てをしているあいだ、窈はこわくてこわくて竹を振りまわした。こわくてしかたがなくて、夢中で。その様子を、雛さまは、一瞬、驚いたふうだったが、涙と鼻水でぐちゃぐちゃのきたない顔を拭ってくださり、背中を抱いてあやしてくれながら優しい声音でおっしゃった。
「ねえさまは、こういう病気なの」
理嬢さまがかわいそうだった。なんでこんな病気なの。
理嬢さまの身体は、傷だらけだった。薄くなった傷痕、赤い紅の傷痕、大きなものと小さなものを含めると数えきれない。理嬢さまが傷に埋もれてしまいそう。
お顔も傷だらけ。おでこから左頬の傷、お顔のまんかなをまっすぐな傷、右の頬からななめ上の傷。小さいのをふくめると多過ぎてわからなくなる。とにかくたくさんのお顔の傷。
なんでこんな目に合わなくてはならないのだろう。湯浴みのお手伝いをするたびに、窈はいつも思った。だが、理嬢さまはけろりとしている。いつもにこにこしておられて、取り乱さない理嬢さま。なんででしょう。湯浴みを痛がったり、苦しがったりなさらない。たぶん人間が持っているだろうよくないと思うものが、穴に落ちてしまっているのだ。
理嬢さまは。
血が足りないから、とても白く、細い。目をつぶれば死人みたいだ。
なぜだろう。
理嬢さまは、自分の身体から流れる血を気にしていない。ぼんやり、魂が飛んでいるようにしているだけで。窈は、この世の御人なのだろうかとうたがうことがある。でも、ちゃんと触れるから、幽霊ではない。