赤紅の傷痕U

□一
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窈は自分の人生なんてこんなものだと、七歳を過ぎたばかりのころ、思った。

言語も文化も、あたりまえだが民族も異なるこの地に連れて来られたのは、どこか必然だったとも思う。連れて来られた、聞こえはいいが、その実、売られたのだ。

窈の住んでいたところは、土地があまりいいとは言えなかった。伝えられたという米と土地の相性がよくなかったし、広大とも言えなかった。米を育てるよりは、川へ出て魚を釣ったり、森へ入って獣を狩るほうが何倍も利にかなっていた。それに、果実を手に入れることもできたのだ。

でこぼこの土地だけに注視すれば、米を育てるのに注視すれば豊かと言えないだけで、ほんとうは豊かであると、まちがいなく思っていた。

そのなかで、窈は売られた。売られた、これを少しばかりちがう言い方にすると、とてつもなく裕福な人間の家で下働きすることになった、である。親であったひとは、だれかと話していたと思う。そして、「おまえが行ってくれれば、あたしらの生活が助かる」と言った。あたしの家の生活は、貧しかったのだろうか。疑いの靄が頭のなかをぐるぐるしたが、またたくまに話は進み、窈が声を出す前にことはとどこおりなく。

そりゃあ、米を食うには貧しかった。けれど、肉や魚が喰えた。ほかにも食べられるものはあった。住む場所があった。寝る場所があった。鶏や豚や犬を追いかけまわした。ああ、貧しかったのか?親とだれかのどちらがだまされたのだろうか。いや、だまされたのは自分だったのだろうか。いまとなっては、どうでもよかった。しかし、これはめずらしくはない。たぶん、きっと、そう。ちがいない。

窈はだれかに連れられ、とてつもなく裕福な人間の家に放りこまれた。そして、そこでこき使われる生活を送る。窈は、世を渡る術を着々と身に着けていく。

獣を追いまわし、魚を狙う日々を過ごしてきた窈にとって、下働きは息苦しいこの上なかった。

やたらといばりたがる年上の女、屋敷の奥方、御嬢さまどもからよく平手を喰らう日常。あれがなっていない、これがなっていない。お上品で窮屈な世界に慣れることは無理難題だった。窈は、身体を思う存分動かしたくて、たまらなかったのである。

上流と言われる世界の人間は、窈にとって、腹の立つ肉の集まりだった。けばけばしい白い泥をぬりたくって、似合いもしない光る石と色鮮やかな布をかぶって、周囲にいるこれまた腹の立つ同族をほめたたえる。そして、喰えるものを大量につくって並べたか思えば、ろくに手もつけずに捨てやがる。頭が悪いんじゃなかろうか。なんで食えるものを捨てるんだろう。わけがわからない。食べられることはしあわせだ。そのしあわせを捨てるのだから、やっぱりあいつらは頭が悪いのだ。そうなのだ。

きれいがきたないで、おいしいがおしくないのだと、思った。

うそとうそとうそにまみれた世界が、窈は嫌いだった。

はじめは、反発をくりかえし、そのたびに殴られ罰を与えられていた。正しいと思うことが、そこでは正しくなくて、むしろ責められる的であった。一番大切なのは、ただ黙っていることだとだと知る。どんなにひどくても、おかしくても、どんなに叩かれても、黙っていればいい。黙ってさえいれば、こちらの被害は少なくて済む。

だが、窈は引き下がらなかった。

黙っていろと言うのなら、黙っている。その代わり、窈は笑うことを止め、その目をつねにつりあげつづけていた。小さいだろう。しかし、それが唯一の反撃であった。思えば、これが窈が窈であるべき存在を保つためのおまじないだったのだ。ただ、やはり、目つきが悪いとぶたれる。

月日が経った。瞳を虎のように光らせる窈は、また売り飛ばされた。反抗するから使いものにならない、と。

娼館である。

娼館なる場所がどういうものかは知っていた。だから、窈は暴れた。ろくに覚えていないこの国の言葉と、むかしの言葉を散らしつづけた。

暴れるのは大の得意だ。木に登り、魚を泳いで追いかけ、野原を駆けめぐっていたおかげか、窈の身体は野性的で強靭だったのである。さらに、窈は薪割りや庭の手入れといった、とにかく身体を動かす仕事を黙々とこなしていた。

売りに来た男に背を押され、店の男に両手首を引っ張られる。ここの敷居を一歩でも跨いだら、あたしはもう外には出られないのだ。死ぬんだ。思った。死ぬのだ。死ぬわけなんかないと知ってるけど、死ぬんだ。むっつり甘い香りと油っぽい料理のにおいが店のなかからただよってくる、これは自分の死体のにおいなんだ。

横から風に攫われるみたいに、窈の身体は体勢をくずした。

これが転機だった。

頭をあげると、男が居た。「この子ちょうだい」きれいな声がきこえてきた。ふざけるな、だみ声がきこえた。そして、道が赤くなっているだけで、目の前の男たちはいなくなっていた。わけがわからない。

わけがわからない。

新しい窈の主は、美しい男だった。こんなひとがこんな世界に居るだなんて。夜の一部分をくりぬいたような黒髪と、すうっと、とおりぬけてしまいそうな白い肌のひと。思わず見惚れてしまった。お人形さんのように美しいひとだった。

同時に、得体の知れない怖気もあった。たとえるならば、きれいな花に誘われて近づいたはいいものの、つぎには、隠れた大きな口でひと呑みにされてしまうような。そんな。

窈はぽかんと口をあけたままんま動けなくなって、気がついたらお屋敷の居間に、突っ立っていた。「あんたは起きたまま寝るの?」蒼い瞳の男の人は、けたけた笑った。まずい。ここは娼館じゃないけれど、場所が変わっただけのはなしじゃないか。きもちがわるくなった。身構えた窈を呆れ気味に視つめた蒼い瞳。「あんたに興味なんかこれっぽっちもないよ、ばあか」

そのひとから、仕事が与えられた。女の世話だった。
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