赤紅の傷痕

□一
1ページ/2ページ






ひとごろしが出るらしい。





曹操のお膝元である都、業ではそれが今一番の話題であった。

ひとごろしは女も男も動物も関係なく狙うという。業の都でひとごろしが話題をさらうのには、もうひとつ理由があった。ひとごろしが好むその残忍な殺し方だ。

鋭利な刃でその身体が散々いたぶられている。力任せに引き抜いたように身体がばらばらになっている。えぐられたように内臓が出ている。裂いたようにちぎれている。人間がしたのかと青くなるほどの残忍な殺し方だった。

血まみれの遺体が、誰か判別さえも困難なそれが、明朝になると都のどこかで転がっていた。はじめのそれは、猫だった。なんてむごいんだろう。そう思っただけで、だれもさほど気には留めなかった。つぎは、犬。そして、人間。人間が異様に殺されてやっと、みんな青ざめはじめた。

誰かは気づいてしまった。遺体は朝になればのさばる犬や猫そして鳥たちについばまれているのが常であったが、その身体にはあきらかに獣ではない揃えられた歯形がついていることを。

なぜ、ひとごろしが起こるのかはだれにもわからない。二日や三日つづけて起きることもあるが、ぱたりと止んで、ひとびとに忘れ去られた日に出てくることもあった。

ひとごろしは、自由に闊歩していた。だれにもすがたを見せることなく、見られることもなく好き勝手に生き物を殺しまわっている。見たとしても、曙光に臓物を晒すことになる。ひとびとの間ではさまざまな憶測を呼び、まるでおとぎばなしのように手を変え品を変えて、ひとごろしの実態に肉付けしていった。

犯人は誰だ。あいつか。そいつか。それともあいつか。いろいろな憶測が飛び交わっていた。猥談にも似た、いやらしい話をするように、宮中でも話題をさらう。

くだらぬ。夏侯惇はそう思っていた。

ひとごろしの件については夏侯惇も頭を悩ませていた。治安を守るのも曹操配下の我々の役目である。見回りの兵の数を増やし、夜まで出歩くことを控えるよう達しを流布し、考えがおよぶかぎりのことはしてきたつもりである。それなのに、ひとごろしのしっぽはすこしも掴めない。証拠をなにも残さないのである。どのような得物を使ったのか、それすらもわからない。置き土産と言えば、やはり犠牲者だったものひとつ。我々の策を馬鹿にするがごとく、ひとごろしは人を無残に殺す。たいへん不愉快であった。

民たちが面白おかしくひとごろしについて語るのも、またひどく不愉快であった。

戦に出ぬものたちにも残酷な面がある。人間は誰でもそうなのかと思う。ひとごろしの特性をなぜ娯楽にするのだろうか。だが、彼らは知っているはずなのだ。私利と私欲のみを貪る為政者が都を焼き、弱きものをなぶるおぞましいすがたを。それなのに、彼らは死を楽しむ。わけがわからない。結局、面白がっていられるのは自分が犠牲者の立場にまだいないからだ。無知とは嘆かわしい事象だ。

いくつもの戦場をおのれの身体で知った夏侯惇は舌打ちした。戦場に出てみろ。人が人を殺すのは当たり前だ。上げた首級を自分の手柄にせんと仲間を殺すのも当たり前だ。それらを見てみろ。きさまら、笑えなくなるぞ。










「ひとごろし、ですか?」

青々とした田畑を楼閣の上から眺めながら、何をいきなりとでも言うようにとなりの人間はそう答えた。その声の調子はどこか楽しんでいるような、とぼけているような、どこか不明瞭であった。おそらく、この話題が口にされるとは思ってもいなかっただからだろう。

なぜこのとき、そのような話題が出るかはわからなかった。しかし、屋敷のなかで交わすには重すぎた。

楼閣の背は高かった。田畑よりも遠くから眺めば他の建物よりも突き抜けているように映え、間近で見上げれば天へ届くように圧倒する。

「今月に入って、昨夜、死者が五人になった」

隻眼の男、夏侯惇はその静かに流れるように淡々と言葉を紡ぐ。夏侯惇の隣の人間、理嬢は口もとにかすかな微笑をたたえ聞いていた。

「まだ捕まらないのですか?」

「犯人の手がかりが見つかれば苦労はせん」

「ごもっともです」

「お前の心配はしていない。が、用心に越したことは無い」

「大丈夫ですよ。わたしは。夜に出歩かねばよいのでしょう?」

そういうことだ、とは口には出さずに夏侯惇は目を伏せる。

もともと口の数の極端に少ない性格である、夏侯惇がよくする仕草だ。それははじめて会う人間にとっては首をひねるようなものだが、長い間、夏侯惇の手によって育てられた理嬢には見慣れたものであり、あたりまえの様子だった。

「わたしは、特別なことがない限り、夜は外にお出かけしませんから」

上に見える空は広く、風が早い。青を泳いでいく白が過ぎてゆく。

「夏侯惇さまこそ,気をつけてくださいね」

強いひとにこういうことを言ってよいのか、無礼、非礼ではないのかと思いながらも言った。

返答は帰ってこないだろうと思いつつ微笑む。思ったとおり返ってこなかった。しかし、夏侯惇は自分の言葉を受け止めてくれている。その証拠に、夏侯惇はひとつの瞳でこちらを見つめてくれた。

日の光が黒い影をつくりだす。まっすぐに伸びる影は、ときどきくっついた。

ふたりのあいだに血のつながりは一滴も無かった。

いまからさかのぼること十年ほどまえの出来事である。理嬢は天涯孤独の孤児として曹操に拾われた。

曹操に拾われたのち、理嬢は夏侯惇のもとで育てられるようになった。曹操は夏侯惇に理嬢の教育を命じたのだ。仰せのままに教育を施してきた夏侯惇には理嬢に対して兄か父親かなにかしらの情が芽生えていた。

身元が定かではない理嬢を側室にしようとした曹操の心のうちはわからないが、夏侯惇はただ誠実にその命を受けたのだった。

側室になるという事実は理嬢にとって十分承知の上のことだ。内心、拾われた恩があるために否と言えないのだろうかと思うが。理嬢に嫌がるそぶりは無かった。曹操のいる近くで育てられてきたために、抵抗が無いだけなのかもしれない。

「理」

「はい」

「また前に従兄上に呼ばれたな」

「え?」

「従兄上は、なんとおっしゃっていた?」

夏侯惇は曹操を従兄上と呼ぶ。従兄弟同士だった。

不意に出した言葉に理嬢はその身体を一瞬、強張らせた。

「なにを、とは?」

「奥殿に召し抱えるには十分な時期であると申し上げたたゆえ、おまえにもじきじきにおはなしがあると思っていたのだが」

理嬢は喉から声を出すにためらった。息を飲み、息を吐き、やっとつむぐ。

「あ。あの……………孟徳さまが……………その、これからのわたしの嫁ぎ先が、だそうです……………」

「嫁ぎ先?」

そろそろ正式な側室という話はどこへいった?言葉を夏侯惇はためらった。

最近、曹操の理嬢への呼び出しが多いのはいったいなんのためか。幼少から側室のためと育てられてきたのは理嬢ももちろん知っている。それなのに、嫁ぎ先の話のためという理由はあまりにもおかしい。

さらに、曹操の理嬢への接し方を見ても、気が変わったなどはありえないはずだ。

理嬢が明確な意思を持って虚言を口にしたのだ。夏侯惇は切れ長の目を細めた。

「はいっ」

理嬢は喉に小骨がひっかかった声を出して、固い笑顔をつくった。へたくそだ、と内心思う。

「……………そうか」

「はい」

「……………ほんとうなのか?」

どこか迷い気のある理嬢の口調にどこか不信を覚えずにはいられなかった。落ち着かないその口調に眉がひそむ。

「……………」

「理」

「……………あの、わたし、失礼します。さきに帰ってますねっ」

「理っ」

逃げるようにこの場を離れようとする理嬢を引き止めるため腕を掴む。理嬢は声を詰まらせた。

痛みに顔をゆがめた理嬢を見て、夏侯惇は咄嗟に手の力をゆるめた。そして夏侯惇の腕を振り払い、振り返ることもなくその場を足早に走って行ってしまった。かんかんかん、石段をける音がする。

傷でもつけたのか、そう言えなかった自分に後悔をした。こういうときだけ自分の性分に嫌気が差した。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ