赤紅の傷痕
□四
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「雀殿」
張遼は軍艦の上から真っさかさまに落ちてゆく雀を見た。
張遼は当てられた。
雀とともに居たそれは、闇に深く紛れていた蒼く光っていた気がする。だが、注意する猶予はなかった。夜をとどろかせる炎が、炭が赤くなった静かな色へ染め上げた。闇が彩られて、騒々しく踊っている。蒼は暗い黒を、沈黙の色を通すだけで踊りには目もくれず、す、と気配を遺して溶け込んでしまった。
「雀殿を、はやく」
蒙衝船の舵をとる部下に命じ、雀が落ちた場所まで行かせる。そして、間一髪のところで沈みかけている男を数人がかりで引き揚げた。
狭い甲板に載せたまではいいが、そこに横たえられたものを見て、短く悲鳴をあげたのは張遼を含む一部隊全員だった。それは、物言わなかった。気を失っているらしい。
……………人間なのか?だれもが、そう思った。濡れた生物はあの美しい容姿をしていたものだった。だが、これは、双方の紅い瞳が飛び出し、見える肌に走る幾重もの筋、肉をえぐりとろうとせんばかりの爪と牙。髪は短くなっているが、これは雀というあの男だ。牙の隙間から風に似た音がし、意識はないようだが、生きていた。
「化け物だ」
誰かがそう言った。
「化け物だ」
「化け物だ」
ひとりを皮切りにみなが口々に言い放ち始めた。なかには、剣を抜き放ち叫ぶものもいる。初めて目にした異形に、屈強な兵士たちは取り乱した。だれも見たことがない異形だ……………。
「黙らんか」
張遼は自分の外套で雀の顔を巻いた。兵士たちは少しだけ理性を取り戻したが、殺すべきだと進言する。おそろしいのだ。人間が持っている姿ではあるけれども、あきらかに我々とはちがう。
「いまはそれどころではない。ここで気を違えるな。いま成すべき任務は撤退だ」
張遼に恐怖がないと言えば嘘になる。張遼にも、恐怖があった。だが、殺してもよいとはどうしても思えなかったのだ。この異形はあの雀であるのかという疑う気持ちがあったが、身に着けている衣服から雀であるにちがいないとすぐに知れた。あの雀は、こんな化け物だったのかとも思う。我々に害意でもって襲いかかってくるかもしれない。
気持ちの在り様は、部下たちとなんら変わりなかった。
それでも、殺してはいけないと張遼は思ったのだった。いや、頭では殺すべきと感じてはいても身体が動かなかったと言ったほうが正しいかもしれない。
「他言は無用。生殺与奪の権利は私が持つ」
船頭に指示し、すでに江陵へ退き始めている曹操を追うべく、漕ぎ出させた。
背後では大きな音を立てて軍艦が炎をまとったまま河の藻屑となった。熱い花びらが舞い、それらも水面で燃え尽きた。
赤壁で業火の策に飲み込まれ大敗した曹操はただ馬を急き立てて、烏林から華容道づたいに江陵を目指していた。
孫権と劉備の連合軍はここぞとばかり追いかけてくる。後方から、容赦なく追いかけてくる。
気を許す暇など、江陵に着くまで寸分も無い。
敗けた。
曹操は唇を噛んだ。
敗けるはずのない戦で、敗けたのだ。敗けてはならない戦で敗けた。