赤紅の傷痕
□二
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蒼は動き出した。
やってきたのだ。ようやく時が満ちたのだ。
待っていた。もう待つのは終わりだ。自分の存在を知らずにいる紅に気づいてもらえることどころか主張さえもできぬ悠久はついに幕をおろし、打ち破れるのだ。水面を突いて、手をさしのべてくれぬのならば、反対にこちらから這い出して手をつかめばいい。水面の上、さらに上に壁があるのならば、剥落など待たずにぶち壊せばいいのだ。
蒼は紅を愛していた。とてつもなく愛していた。
生まれ落ちる前の、赤子の宮でからだを丸めていたときから、紅だけをずっと、ずっと。
深淵から目だけをぎらぎらに光らせ、口を不気味に引きながら紅をずっと見ていた。
孤高の月のように冷たく、美しい紅。殺戮の本能にじつに忠実で、まるで楽しく鞠をついてまわる無邪気な紅、憎たらしい紅を恋う紅。蒼は紅を愛している。しかし、ゆっくりと、だが順調に愛というものはすがたを変え始めた。
紅は、美しいばかりだ。すなわち、蒼は 美しい紅しか知らないのだ。蒼は思った。自分に気づいててくれないから、紅は、美しい顔しか見せないのだ。
紅に自分を知らしめてやる。そして、紅から可愛い紅を奪い取ってしまおう。強引でいい。むしろ、強引がいい。紅はどんな顔をして俺をそのきらめく瞳で見惚れてくれるのだろう?そこで、俺は初めて生きている意を持つ、初めて不安定な存在を形あるものにできる。初めて俺は息をするのだ。
待っていろ。
俺はいまから行くよ。
蒼は足を伸ばした。暗い暗い底のなかで。
ぼこり、水面にあぶくがひとつたち、爆ぜた。
江陵のとある一室から、音が響いてくる。
流れるようなさわやかさをふくむ見事な奏でに、夏侯惇は首を傾げた。
女のだれかが弾いているのだろうか。下働きの女たちはいるが、だれが箏など弾いているのか。こんな田舎に、たしなみをもっている人材がいたのか。いや、女である理由はこれほどもなくてよいのだが。
夏侯惇は設けられた執務室で曹仁と地図に向き合っていた。頭を上げた夏侯惇につられて、曹仁も頭を上げる。
「箏、だな」
「めずらしい。我が軍にそのようなものがいましたか。夏侯惇殿のほかにも、優雅な趣味をもっているとは」
「そうかな。何人も人間がいれば、ひとりくらいそんなやつがいてもめずらしくはないさ」
「理嬢ではないので?」