赤紅の傷痕

□二
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とてつもなく暗く寒い底は、深い蒼色がどこまでもどこまでも延々と広がっているばかりだった。

それは、じっと紅を見つめ、機会をうかがっている。夜の影として身を潜め、どのような音をひとつとしてたてなかった。声も、衣の擦れる音も、息のささやきも、つぶやきも、またたくほんの小さな音さえも。

身をちぢめ、蒼は上を、すべてを照らすようにかぎりなく美しすぎる紅を見つめていた。ひとびとが太陽を神と敬い、崇め奉るのならば、紅は空にある太陽だった。

蒼は紅を愛していた。

紅は太陽はおろか、月の光さえも消し、大地に住まうあらゆる獣たちと永遠に住まう魚たちもその美しさにだらしなく大口をあけて動かなくなり、泳ぎを忘れる。花はあまりの美しさに色を失い、しぼんで枯れ、翡翠も真珠も、悠久の煌めきを放つ宝石だって砕け散る。

紅は、うるわしかった。

蒼は、ずっと紅を見てきた。しかし、紅は蒼の存在さえもその場に息をし、懸命に生きているということさえも認めていなかった。いや、認めるどころか知りもしなかった。こんなにも紅を愛しているというのに、自分を知らないのだ。

やがて、蒼には暗く陰鬱な気持ちが、深く細かい場所からゆっくりと降り積もっていった。色が濁るそれは、ぐちゃぐちゃに折り返し巻き返しこねられて、感情になった。紅を愛するのはすこしもかわらなかったが、あらたに生まれた感情はもとの愛というものに、似ている。むかしからのと、あたらしいのと、どちらも紅が蒼の中を闊歩した。どちらも紅は蒼を知らず、まばゆくかがやき、すべてを照らしている。あたらしい気持ちは、紅のその美しさを歪めてしまいたいと、導くようになった。

紅はどうしたら、なにをしたら、蒼である自分を見てくれるのだろうか。

紅は蒼である自分をそっちのけにして、なにを見ているのだろうか。紅は愛らしいさらなる紅を愛していた。自分が紅を愛するように、信仰にもちかいかたちで、慈しんでいたのである。

蒼は思考を存分にめぐらし、おのれが肉体も精神も満ちゆくまでに、くる日もくる日も紅のみを想起することばかりを、おろかにもくりかえし始めた。

蒼は紅を模倣し始めた。いや、紅のようになっていったのだ。もともとを逆流してさかのぼれば、蒼は紅から生まれたのだった。それは、不定形のかたちも輪郭もさだまらぬ肉塊からぼこりと、とれてしまったかけらが動いたように、蒼はこの世界に産声を上げて生きることを許されたのである。蒼の大いなる罪を寛大にも許し、誕生を望んだ。

蒼は紅のようになろうと懸命に努めた。しかし、それでも遠くおよばないものがあった。紅が、もうひとつの紅を愛したように、愛することができなかったのである。蒼にしてみれば、それは必然だった。紅は蒼のいとおしい紅をひとりじめにし、紅だけを自分のものとしてきたのだ。

蒼のなかで、紅はまごうことなく、紅だけのものであった。
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