赤紅の傷痕

□三
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首が、かくんと一瞬垂れた。

視界が黒かったのは瞼を閉じていたため。静かに、目を開いた。

薄い赤の灯は、声もなく部屋の帳や机などの調度品を照らしていた。先ほどより奏でられていたはずの箏曲が止んでいる。おそらく、音の主は夏侯惇、あの従弟は、烟花のようなその調べに、どんな想いと願いをこめていたのだろう。

曹操は重い身体を伸ばして、卓の上に散らばる広げたままの竹簡を見やる。報告が綴られたそれは、劉備軍が孫権を頼っているとの旨が示されていた。南の地において、だいたいの力を保有していているといえば、孫家以外にありはしないのだから、予想はしていた。そして、孫権も受け入れるであろう。南下をする大敵を打ち砕きたいとするなら、少しでも多くの勢力を取り入れ連合を組むしかないのだ。

孫の周瑜は孫権の兄孫策と義兄弟の契りを結んだ関係にあり、軍事の頭脳として名高い策士であった。美貌の青年としても知られ、曹操の耳にも、美周郎の異名が伝わっている。

曹操に引っかかるものがあった。劉備が、長坂橋にて、命からがらながらも、まんまと逃げおおせた。自分を慕う民たちを、置き去りにしたのは賢い判断だったが、そのように冷徹な行為を実行できるほど、あの男はできていない。ならば、考えられるのは、冷厳の賢才が居るということだ。劉備の傍らに座す策士。その冷気たるや、劉備の勝利のためとあらば、非道と罵倒されるようなことも、きっと迷いなく命令するほどのもの。

そんな男と周郎が組んだとしたら、どのような戦になるだろう。

圧倒的な兵力差と言えど、安心などできはしないのだ。戦力ではどうともならないが、戦局は工夫次第でどうとも転がすことができる。戦はそんなものだ。小さなほころびやつながりが、大きな矛となって敵を突き殺すことなど容易い。

頭のなか、奥底で、じんとなにかが静かに笑っている。笑い声はやがて大きく鳴り始め、曹操の頭の半分から徐々に半分へ共鳴し、全体を包む。

船上戦の北出身の我々は水上での戦に慣れていないのだ。

いくら玄武湖を造り、軍事演習を行えども、南のものどもの水上戦の年季は覆せるものではない。付け焼き刃に水であり、にわか仕込みであることを自覚しつつ、この英邁な丞相は決行した。まったくの無垢では、役には立たない。にわかの備えであったとしても、経験の有る無しでは大きく異なる。

賭けだな。曹操は思う。

最後まで、勝利を収めるまで、自分はこの不安を拭えないのだ。准河で南と北に分断される、この広大な土地は、南船北馬とよく言われる。南では馬を捨て船を用いて、北では船を捨て、馬を扱う。

南での戦は初めてだ。地形も環境もすべて、こちらの認識は通用しない。狼の群に羊を放つのに似ていた。

見えない糸をたぐりよせ、ほんのわずかな可能性を探すおのれを想像すると、自嘲に唇が歪んだ。

「父上」

「まだ起きていたか、彰」

曹彰。字は子文。曹操と卞美安の間に生まれた二番目の男児で、曹丕の弟、すべての息子らのなかでは、逝去したのも含め四番目の息子である。

「灯りがありましたので、よもやと」

屈託のない笑顔を輝かんばかりに浮かべながら、曹彰は薄い帳をくぐり、灯の近くまで来た。互いの顔がよく見える。

「駆けたときの興奮が、冷めず、眠れなくて。父上は?」

「おまえと同じようなものよ」

「まだまだ若々しいですね。さすがは漢帝国の丞相だ」

若いのはおまえのほうだ。曹操がいまのいままで起きていたのは、いずれの大戦への不安のためだ。つい眠りに誘われそうになっても、一抹の不安は許してくれない。

曹彰は、息子たちのなかでも、とりわけ武勇に秀逸だった。狩りが大好きで、一度出かければ大物を必ず射止める腕。天衣無縫の気さくな人柄から、周囲の大勢に好かれている。あの剛勇な武将夏侯淵の子で、父の強さを脈々と引き継ぐ夏侯称と並べられるほど、期待が厚い。

しかし、そのぶん、知には疎い。長兄である曹丕とは、性格から得手とするところまで、まったくの正反対だ。

「ここ、江陵にはどれくらい滞在するおつもりで?」

「三、四日は休む。そのあいだに、孫のやつらとぶつかるための準備をせねばならん」

「はい。俺の軍団も体勢を立て直しておきます」

「任せよう。おまえには、心配がない」

「ありがとうございます、父上」

あどけなく、照れて笑う様相は、実弟曹植とよく似通う。曹操の胸中に、後継という次代を託すさらなる思いごとが浮かんだ。
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