赤紅の傷痕

□二
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私にとって、理嬢は「たいせつ」であるべき、いとおしい存在だ。

だが、それは理を強制的に預かることとなり、教育を任された始めはなかった。

押しつけられたただの餓鬼にすぎなかったのだ。

軍事演習をしていた、とある夜のうちの場違いな出逢いだった。親もなく兄弟もなく故郷もなく、広い草原をさまよい歩く孤児を、従兄上は一目見るたびに、興味を持たれたようでな。理を育てろと直々の命令を下された。知っているのは、夏侯淵や曹仁、曹丕、あとは互いの近しい部下のごく数人くらい。

曹孟徳、夏侯淵とは、幼いころからの仲だ。ふたりの従兄の後ろを、よく追っていたものだ。

私と夏侯淵はそれぞれ、従兄上を支えている。やつが矛ならば、私は盾。自分らの得意なる方法で、御守りさせていただいてな。

自分で言うのもなんだが、とくに私には、従兄上からの信頼と長年従ってきた気安さがある。さらざまなところで、従兄上の好みもよく存知ている。相まって、教育係りに選ばれたのは必然なのかもしれない。

それでも、当時、煩わしさこのうえなかったのは事実だ。とんでもない命令だ。子どもの扱いなどとんとわからぬ。

理嬢と言うのは、もとからの理に、嬢を加え、従兄上が付けた名だ。由来は知らない。まあ、詩をたしなまれる従兄上のことだから、華やかさにかけるなどそういった類だろうが。

理嬢は当初、右や左どころか上も下も区別できぬといったありさまでおどおどしていたが、ついには懐き、私の左眼を聞いてきたりしたものだ。もちろん、軽く流し、明雪や姜維に押し付けていたが。

摘んだ花をもらったこともあるが、そのときの私はあいつが見ていないところで、投げ捨ててしまっていた。非情だな。今ではそのようなことはしまいが。

理は汚れの知らない少女だった。よく笑ってよく走り回って。名しか記憶のない子だからそうだったのだろうか。生きている世界がちがうとも感じたことがある。それは、子どもだからと女だからというものではなくて、この世に産まれた瞬間からが、成り立ちの根本からがというところでの異質なような気がした。どこが、というわけではない。ただの勘だ。よもや、当たっていたとは驚きだがな。

天真爛漫な無邪気を振りまくお転婆に、私はほとほと呆れていたよ。あんなやつが、従兄上の側室になるなんて、無理な話だとな。従兄上の女の趣味は、しとやかで、慎ましい女性だ。理嬢は一片も当てはまらんと言うのも昔のことなんだが。

ある日、理は庭で木の上にある鳥の巣から卵を穫ろうとしたんだ。そうしたら登る途中で下を見て足がすくんだのだろう、登るにも上がれず、降りるにも下りれず、動けなくなって泣いていた。

泣き声があまりにもつづいているので、せっかく読んでいた書を置いて、騒がしい原因のもとへ向かった。侍女らが手を離さないよう注意したり励ましたり、てんやわんやのざまだ。そのときは驚きはしなかったな、とうとうやったわと予測通りで溜め息が出たわ。木にでかい虫が引っ付いていた。あの馬鹿はなにをしているんだ、盛大に舌打ちをしてから助けようとしたよ。仮にも、私は教育係りだったから。

だけれど、理は幹から手を離してしまい、肩口から地面に叩きつけられた。あの小さな身体が動かなくなり手はすり傷だらけ、額のすみから、薄い血が滲んでいた。

身体から血の気が引いていくのが、わかった。

理解できるか?邪険に扱っていたこの私が一変し、父親か兄の皮を被ったのだ。

私の行動は素早かったと思う。医者を呼べ、頭を動かすな、牀を整えろ、布を持ってこい、などなど侍女らが私が怒鳴っていたと証言していたので確かなはずだ。

治るまで付きっきりで、自由な時さえあればすべてを看病に費やした。じっとしてはいられない、じっとしていても、肌のひとつひとつが、がたがたと震えてたまらなかった。

いつもいつも私が居るあいだ、理嬢は詫びを口にしていた。なんで、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返したのだろうな。私に看病されるのに負い目があったか卵を盗もうとした罪悪感からか。ばかなむすめ、だけどかわいいとも思ったよ。初めて、愛着を持った。

理は、暗闇を恐がった。

夕暮れになり夜がじわじわと近づくところころとした笑みを絶えずほころばせている顔が、徐々に沈んでゆく。

夜、寝れずにむせび泣くことなどしょっちゅうで、私はよく添い寝をしてやった。歌を歌って、民話を話して、抱きしめてあやして。父親はこのようなものを言うのだなあとぼんやり考え、私もやがては眠りにつく。

べつにためらいはなかった。私の役目なのだと、いまの私は、教育係りよりも理の父親であることに徹している。むかしの私も気づかぬだけで父親であることを一番にしていたんだ。

これが、私と理の距離が一気に縮まった出来事ではなかっただろうか。私が生み出していた壁が、またたく間に塵のように去ってしまったのだ。単純かもわからんが、そんなものさ。

理を愛しているかと聞かれれば、答えはない。

理はいとおしい。しかし、私は理に、愛、ではあらわせないほどの情を持っているから。恋人、親子、主従、兄弟、友人、この世のすべての「あい」のかたちをふくんだ「あい」以上のなさけがある。

居なければならない存在だ。
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