赤紅の傷痕

□三
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約十万の人間と荷物を載せた車、それを牽く牛馬は、まるで神話に語られる大蛇のように太く、長くうねっていた。

蛇の胴体は包丁で寸断されて細かく散らばり、さらに分裂していく。大蛇を成敗してしまおうとするのは、五千の騎馬。

個々には差があり、ある一定の動きに難なく付いて行けるもの、行けないものに割れる。大衆から離れた一団があってもおかしくはない。

昨日、初めて劉備率いる非戦闘員を捕虜にせしめ、曹操は手応えを感じた。気にかけることもないのだが、しきりに、悪魔だの、鬼だのと手負った民が叫び、震えていた。

翌日、虎豹騎を筆頭にした追撃は、ようやく劉備に接触した。

敵、味方入り乱れた白兵戦。捕まってなるものかと抗ったものは、農民と言えど容赦ない制裁を与えられ、混乱を極めた。増長された恐怖と狂暴は怒涛の災害のように荒れる。

血がない場所なんて、どこにあるのだ。白い粉塵が宙を舞い、視界を濁らせている。趙雲は槍を片手に四面楚歌、周囲は曹操の手のものばかりの背水の陣の状況を疾走していた。劉備が、家族と離れ離れになったのだ。

曹操の鋭利な冷徹さと恐怖を、身を持って知る劉備は、ついに追いつかれてしまったと報告されると潔く投降してしまおうとした。降伏によって無辜の流血を食い止めようと考えたのだ。民たちを思いやってのことだが、張飛、諸葛亮は頑として反対し、無理矢理に関羽のもとへ送ろうと引きずるように連れて行った。

趙雲は、御家族のだれでもいい、ひとりでも、この混沌から救い出し劉備へ届けたかった。命令ではない。自分らが護衛をしておきながらと自責の念を胸に李四象と首を返した。はたして、どちらも生きて戻ることができるか心配ではあるが。

諸葛亮が言った。計画を、きちんと立てておくべきでした、と。あのとき話そうとしていたのは、これだったのだと思った。だとすると、諸葛亮は目まぐるしいなかで、家族を捨てるのを画策していたのだ。護衛をつかさどる趙雲らに話さなかったのは、まだ独断であり、劉備の反対もあったろう。

血のにおいが濃くなった。

死臭が充ちる。鼻と口を覆っても、ひしひしと感覚を刺激する。これは、ただの死臭ではない。においだけではない。たとえるなら、空腹の狼の群れに無防備で放り込まれたような。愛馬白龍も異様な気を察したのか、歩みをたじろいでいる。

白龍の鬣を汗ばんだ手で梳き撫でた。落ち着け、だいじょうぶだ。

そのとき、すぐ目の前に、肉片が転がっているのを見た。もうもうと白煙のなか、赤い塊は点々とつづいている。これは。虎や熊の獣が食い散らかしたかのような乱雑ぶりで、直視するには厳しい。心を保っていられるかどうか、悩んだ。人体とおぼしきものがこれでもかと悪臭を放つ。

進むごとに腹の底がじわじと疼く。背を真っ直ぐにさせ、右手に握る槍を一度大きく薙いだ。だいじょうぶだ。白龍の腹を股で締める。力強く駆け始めた。

いっそう血の香りがひどくなる。しかし、気にする猶予など与えられてなどいない。すこしでもはやく、捜し出す。気にするな、奥方と阿斗君を早く見つけろ。

なにかが燃える熱さが、風と煙とともに巻かれ運ばれてくる。つい手綱を引き、顔を覆い、腕の隙間から前方を見た。一瞬、ひとりの女が、かすんで見えた気がしたが、すぐ吹きき上がる粉塵に絡められ、いなくなってしまった。趙雲に興味を示さず、遠くを見ている虚ろな影を宿した女だった。

まぼろしであったのか。まぼろしにしては、鮮明だった。それはとても鮮やかな赤い眼が強く残る。

恐怖にも似た虜となるも、怒号に我を取り戻す。前と後ろ、右と左。四方八方から絶えなく聞こえ、趙雲に焦燥を募らせ、女の幻想は失せた。

安全などという路は有りはしないのだが、いくらか敵の手薄なところがあるはずだ。しかし、趙雲一騎では、あまりにも多勢に無勢すぎる。堅い唾を呑み込み、沈着であることを心がけた。脈動は手綱を巡り白龍にも届く。

五感を澄ませる。

趙雲に白刃の太刀が横切った。咄嗟に槍の柄で受け弾く。戦塵はわだかまりをほどき、なかから真紅の双眼が光る。晴れ、輪郭を露わにし刀を握るのは白衣の男だった。

赤は睥睨してくる。そして、ふたたび刃を振るってきた。

互いの馬を駆け合わせ、十合ほど交える。

十一合めで、白衣の男は口を開く。

「おまえ、曹のやつか?」

「貴様が曹操の配下であろう。なにをおかしなことをほざいている」

「失敬した。違反したかどやらで、捕らえられるかと空回りをしてしまった」

男は刃先を地に向ける。

「生憎、敵も味方も、全員の顔を覚えているわけではなくてね。おまえは、劉備の?」

「察しの通りだ」

騎乗しているため、敵陣の有力な人物かと思ったが、供のひとりも連れずにいる。いや、油断させる策か。愛槍を構え直すと、男は肩を竦めた。

「俺は雀という。どちらかと言えば曹操寄りだけど、劉備たちと争うつもりはない。さらに、俺はただの兵卒。この馬は借りものだよ」

「脱走者か?」

「よくない想像を巡らさないでほしいね。まあ、脱走と見られても仕方のないけれど、圧倒して曹操が有利なのに、脱走する理由がどけにあるの」
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