赤紅の傷痕

□二
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遠慮がちに灯された小さな松明。曹操の軍から遠く離れ、夜の暗がりに身を隠す十万の人々。月が高い位置を示していたのは、ずいぶん前のことで、いまは西の山脈へ沈もうとしている。のち、東から陽を差して夜の終わりを告げる合図の曙光が覗くのだ。

劉備率いる軍の将のひとり趙雲子竜と、策略を練る役をつかさどる諸葛亮孔明が声を潜め話しをしていた。

馬が淋しげな嘶きをする。

「孔明さま、追っ手が着く前に、江陵へと逃れるわけにはゆきませんか」

「十中八九、曹操はあたくしたち目掛け猛攻を仕掛けるでしょう。おそらく選んだ騎馬隊でね」

この瞬間にも墨を塗りたくられたかのような黒い奥から、殺気立った騎兵隊が、有無をいわさず突撃してくるのではないか。趙雲は背筋が冷や汗に塗れるのを感じた。

十万もの民を江陵まで導くのは、無理です。あまりにも数が膨らみすぎている。と、諸葛亮は口のなかで本音を零す。それは、だれもが思っていることだ。趙雲も張飛も、糜竺や劉備、民さえも。どこかで、この鈍い進軍は追いつかれるのだと。当陽を出て一日にたったの三里(約四キロ)しか進んでいないのだ。

長坂波が近かった。

船団を率いて江陵を目指すのは関羽ではなく、劉備でよかった。劉備は主君なのだ。戦は大将が死ぬれば終わる。だが、大将は民とともに江陵へ行くと言い切った。自殺行為。十万の民たちは、我々が数騎で誘導し、曹操の尖兵に一矢報いて死ねばいい。非戦闘員には手出しはせんだろうから。せめて、騎兵とともに陸路を辿り先駆けてくださいという懇願にも、頑なに応じなかった。

駆け引きや根回しなどない心を保ちつづけていた。

官僚に囲まれ金銀、玉の宝石をちりばめた席へ座るより、力も権力もない人々のそばへ寄り添う。劉備玄徳は、そんな人間だった。漢帝国の血を引く噂があったが、まさに人民の命の重さを身ひとつで支える、歴代の明君の集まりなのだと思う。

帝は天の子。天帝に選ばれた御子なのだ。

「夢だけは見ないでくださいね」

「えっ」

心の内を、盗み見された気がした。

「あの曹操が徐州で、なにをしたか知らぬわけではないでしょう」

なんだ、曹操のことか。趙雲は安堵する。このひとの眼は、いつも見えないものをひとりだけ見ているように鋭いから、すこし怖い。

徐州の大虐殺の際、諸葛亮はそこに家族と住んでいた。悠々自適に畑を耕して、それなりに幸福でもあったところに、川をせき止めるほど大勢死んだ。家族や親戚はどこへ行ったかわからなくなった。

兄弟の所在は突き止めた。しかし、父や母はいくら時間が過ぎようとわからない。死んだのだろうか、だが、父母の身体が水をせき止めていたなどとは考えたくもない。

「孔明さま」

「あいつは無抵抗の農民を殺し尽くしました。兵隊の格好なんてしていなかったのに」

殺戮せよ。と命令したのは陶謙だと思っていた。だけれどそうではなく、曹操という男だった。しかし、どちらも恨めしかった。陶謙がもっと部下にしつけをしていれば、曹操がもっと冷静な性格で、いや、曹操の父が荷物なんか持っていなければ、起こらなかったかもしれないのに。陶謙の部下が曹操の父親を殺したから、怒って報復にでた、その代償はとんでもない数に膨れ上がっていた。

「徐州の惨状は親を亡くした激情によるものです。私たちは、曹操の身内に害を与えてなんていませんよ」

「甘いですわね、趙雲殿」

「ひとの子ですよ。もう、良心とか、他人に対する思いやりはあるはずです」

「あら。親ひとりのために百万も殺すのが思いやりと言いたいの。いい?曹操は能臣でも姦雄なんかではないわ。ただの殺人狂ね」

「ただ、私は」

趙雲は語尾を強く、荒げた。ほんの瞬く間、諸葛亮の顔は刺すように実際の年齢より高く見えさせた。そして、すぐに目元はゆるまって人を食うように唇が左右に引かれた。

「あなたはまだ世間知らずねえ。いえ、けがれしらずかしら」

「孔明さま、このような場でなじらないでもらえますか」

「純粋だといっているのよ。なじっているつもりはありゃしませんわ」

諸葛亮はいつから着ているのか定かではない薄く黒ずんだ着物の裾で、口もとを隠した。趙雲は訝しんでうなだれる。

「あなたに頼みたい用事があったのですが、きっとやりたくないとおっしゃるだろうから、頼みませんわ」

「聞いてみないと、そんなの分かりっこないですよ」

「そうねえ、もうすこし経ってから言うことにしようかしらね」

「腹が減りましたか、喉が渇きましたか?」

「まさか、あたくしがそんなつまらないことを頼むわけないじゃないの。自分でするわ」

「では、なんです」

「言ったでしょ。頼みたいそのとき、頼みますわよ」

「気になります。そのときだなんて、どうせせわしくて言うにも言えませんよ」
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