赤紅の傷痕

□一
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旅や戦に慣れぬ者が大半を占めるために思った通りの距離を進むのは困難だが、それらの者のために休息を入れ、民に合わせてさえもいると曹操は思った。

主として冷徹に成れぬ劉備の弱みであり、他を想う柔軟さに豪胆なあの関羽、張飛が惹かれるほどの強さ。

劉備は脅威だ。

主君になくてはならぬものを持っていないくせに、主君として成り立っている。自分にないものがある。

民に慕われているのに劉表の後継ぎ闘争に介入し、荊州の利権を奪ってしまわなかったのは、やはり優しさにあるのだろう。恩があるからと、機会をみすみす逃した。

「当陽で軍勢を分け、関羽が船団を指揮しているようです」

荀攸は、静かに言った。

「水路を使いましたか。では、陸路にして先行しているのが劉備、張飛の主力隊なのですね」

張遼が呟き、于禁は目を細めた。

「主力といえど、ほとんど将で兵士はほんのとるに足らん少数だが、水路を使っている策が気になる」

于禁が広げた地図を指でなぞる。すると、曹操が、船団の行方を口にした。

「江陵」

心もとなげに点いている一本の灯が、幕の隙間からの風に吹かれて揺れた。橙色が、諸将の顔を色づけて変えた。

江陵の城は堅牢な上に、軍需物資が豊富に蓄えられていた。簡単に手折れるものどもだが、武器を取り籠城でもされればこちらの兵力は多大な損害を被るだろう。せっかく、一兵も損じることなく劉綜を降伏させ、手に入れた軍を合わせて、もとから率いた数よりも増えたのだ。兵力は温存しておきたい。

いずれは江東の孫と一戦を交えるであろう時、不慣れな水上戦となるはずだ。長期にわたった戦になることは容易に想像でき、兵糧や軍需品を補給する拠点が必要だ。どうしても江陵を奪われたくなかった。

「今さら水の上を進む関羽を追ったとしても、追いつけまい。ならば、陸路を行く劉備を確実に捕らえる」

関羽が江陵を占拠していたとしても、劉備をこちら側で確保しておけば義に篤いあの男は白旗を掲げざる得まい。そうさせるためには、劉備の生がなくてはならないが。

「捕らえるのだ。手狂っても、殺さずに」

これは好機かもしれない。

関羽の最大の弱みは劉備の存在ただひとつ。その弱みを虜としてしまえば、刃を我に向けるなどできない。うまいこと劉備を軍門に降らせられれば、 必然と関羽を自分の手に収められる。

関羽を気に入っている曹操は、ひとりほくそ笑んだ。己の幸運を望むように描いてみるものだが、事実、ことがうまく運ぶことは少ない。それでも、うまくいった場合を想像する。

「殿、追撃を、わたくしたち虎豹騎に一任ください」

手を挙げ、身を乗り出して曹純子和が歯切れよい口調で名乗り出た。

「わたくしの隊は殿が御自ら選んだ精鋭ばかりの騎兵隊。刻を争う戦ならば、虎豹騎こそ、殿のお望みを果たせるでしょう」

「曹子和殿。それはあまりにも身勝手ではありませんか?殿の虎豹騎が選りすぐりの部隊であるのは充分存じているが、騎兵を率いるのは、あなただけではない」

「文遠殿」

張遼が自信満々の曹純子和に待ったをかける。曹純はあからさまに眉を寄らせたが、曹操の手前、兄である曹仁の制止もあり、唇を軽く噛む程度でとどまった。

「張文遠、我ら騎兵隊こそお務め果たせましょうぞ」

騎兵隊を指揮する張遼も夏侯惇に口を出しすぎだと手で肩を押さえられた。だが、張遼は言い過ぎだとは思っていなかった。

張遼は、馬術と騎兵術に天性の才を持っている。また、曹操に仕える以前は飛将と恐れられた呂布に従っていた。呂布のもとでさらに研かれた能力は、今や極致とも言ってよい。曹純も、曹操や部隊の配下たちから称賛をいただくほど騎馬統率の能力に長け、管理と把握にも優れた逸材であった。


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