赤紅の傷痕

□一
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土埃が舞い、煙が目の前を曇らせる。地響きの鳴りは何千馬もの蹄。

頭から黄砂さながらの砂嵐を被り、鼻腔、眼腔から容赦なく入るが、気にする猶予はなかった。

戦。それが、いまこのときだった。

劉表を、そして劉備を討ち荊州の地とさきの安泰を得るために曹操は百万の大軍を率いた。しかし、実際は八十万の軍勢だったがあえて、百万と称したのは敵の気を揺らしてやる策のひとつだった。

曹操が南を征討するその時点で、荊州では後継ぎの内輪揉めが起きていた。色惚けした老人劉表が、若く美しい後妻にそそのかされ、長男ではない息子を後継者に立てようとしているのが発端であった。そのようなことをしている場合かと、荊州の人々は思っただろう。内部で争っているあいだに、百万近い軍勢が押し寄せて来ている。

人と人との結びつきは、案外脆いものだ。完全強固なる忠誠を誓う臣下は、一縷よりも細く、絶えやすいものである。完全なつながりなどないとも断言できた。

官渡に敗れた袁紹の原因は、嫡子を跡継ぎにさせず内で抗争があったことにもよる。

対立は疑心を生じさせる。それは建物にも似ているかもしれない。一見頑丈な城に見えても、柱や土台が朽ちかけていれば見かけ倒しの紛い物、強靱な部隊を所有すれどまとめあげる主たちが争えば一気に統制の力などなくなった烏合の衆。

百万にも近い軍勢に抗う術など無く。

争いの渦中にいた劉表の長男劉綺は賢明だった。命の危機を察した気配によるところが多かろうが、早々と身を引いて劉備のもとへ行った。

荊州に進入したそののち、劉表はこの世を去る。

幸運が突如舞い込んだ劉表の次子劉綜は、すぐ奈落の不幸に落とされた。大軍が攻め寄せていたのだ。頼りない長の部下たちは愛想尽かし、兄に続いて劉備へ付いた。内部の収拾をすることもできぬまま、全面降伏の書簡を書き上げ、その旨が曹操へと届けられるのは、間もない出来事だった。

曹操の進軍を知らぬ劉備はそれまで襄陽の北にある樊に駐屯していたが、ついに進撃の牙がすぐそばまで忍んでいたのに気づかなかった。

そして、慌てて撤退を開始した。

夜営の陣を張る。もうひとりの英雄の動向を、情報収集してきた部下の報告で知った。

曹操はそれを諸将を集め軍議を開き、劉備玄徳が襄陽を出て当陽を通過したという言葉から始まった。

「劉備は身内のみならず、劉綜の臣下、民たちをも引き連れているそうな」

「となれば、劉の進軍具合は速いとは言えますまい」

張遼。字は文遠。

「およそ、一万や二万の民衆ではありませんでしょう。殿、数字はどれほどのものですか」

「我も一時疑ったが、民の数は十万。救いを求めたもの、ひとり残らず引き連れたのだろうな」

人間十万。途方もない多さによって長い列ができあがっていると理解できる。しかし、報告された数は人間の数だけにすぎず、歩む民が手ぶらで安息の地を目指すわけがない。家畜の牛馬、家財を乗せた荷車も含めば、十万は軽く超える。報告された数より、実際はその倍と考えた方がよい。

自由に身動きとれないのは必至だ。
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