赤紅の傷痕
□四
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いつ、だったかな。
わたし、戦はひとを殺すものだって言いました。今でもそう思うけど、戦争があってもあなたがたがいるから、わたしたち民衆は安穏に暮らせています。
戦にであったことはないけれど、夏侯惇さまも孟徳さまも子桓さまも出たことがあるから、ひとを殺めたことがあるのでしょう。きっと、姜維も、これから経験するのでしょうね。
ひとを殺め、傷つけるのはわるいこと。
でも、好きで人を殺してるわけじゃありません、戦びとが悪いということではありません。生きるために仕方ないもの。仕方がないから心を痛めながら、傷つきながら戦っている。愛するひとたちを守りたいから、気持ちと気持ちがぶつかり合って戦が起きてしまうんです。矛盾しているのですね。どうしても守りたいものがあるから、贖罪の気持ちを以て殺しを犯さなければならない。そのことを知っているからあなたは強いのだと思います。奪う、奪われる、殺す、殺されるなんて、単純なものじゃないから。上手く言えないけど、ほんとうの戦は意志と意志との大きなぶつかり合いです。相手だけじゃなく、自分さえ殺して殺してなにがなんでも理想のために勝利を得ようとする。勝たないと、命が、言葉にできないたくさんのものが喪われるのだから。
哀しいことですね。
だから、わたしの知っている強い方々は、凄絶なまでに孤独で気高い。哀しさをいやというくらい知っていて、そんな叫喚に身を投じたあなたたちは、善であるにちがいありません。すくなくとも、わたしのなかでは。
これから言うことは、全部がわたしの素直な気持ちです。
……………ねえ、夏侯惇さま。
わたし、わかっています。
わたしには守りたいものがいたわけじゃない人殺しが住んでいることを。
それにあなたがたのような精神なんてありません。みだらな快楽のような醜いかたまり。完全なる悪にひとしい。
でも、それはわたしです。
覚えてはないけど、殺してしまった。身体の奥で、夢のようにそのときのことが映し出される。ちがうよって言ってくれてありがとうございました。嬉しかったです。あなたが言ってくれた瞬間だけでも、呪縛から解放されたんだもの。ありがとう。
わたしです。
女の人たちを切り刻んだ、夏侯惇さまを襲った、孟徳さまの側室の方々の肢体を……………冷静に考えてみれば、理路に繋げると誰にでもわかるはず。全部、理だもの。
腕、だれかに引っかかれたようになってて、それは首を絞める私の腕に爪を立てから。爪の先が黒く乾いたように汚れてて、それはわたしが引き裂いたはらわたの血肉です。だれかわからないものがくっついてて、それはわたしが殺したからです。
わたし、最初からわかってたんです。見てない振りしてただけなんです。
悪い子だ。
……………理しかいないの。人殺し、犯人は、わたししかいない。夏侯惇さまも、ほんとうはわかっていたのでしょう?夏侯惇さま。あなたはもっとはやく知っていたはずですよ。鋭くも美しい瞳が、罪を見逃すはずないもの。血まみれの着物を着たわたしを抱いてくれたのは孟徳さまではありません。孟徳さまなら、着物の血の意味を咎めるはずですから。
知らないふうに振るまってくれていただけなのですよね。それなのに、傷つかないように護ってくれて。ありがとう、そして、ごめんなさい。
でも、夏侯惇さまが死ななくてよかった。わたしのなかの理じゃない理が、大切な夏侯惇さまを殺さなくて、ほんとによかった。最低なことをして、ゆるしてください。そんな、ゆるせなんて罷り通ることないんだろうけど、言わせてください。
夏侯惇さまが、生きててよかった。ほんとうに、よかった。
……………ごめんなさい。
ごめんなさい、夏侯惇さま。苦しかったですよね?憎かったですよね?怖かったですよね?ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
夏侯惇さま。大切な夏侯惇さま。
きっと、夏侯惇さまの命をわたしの手が奪っていたら、わたしは耐えられなくて生きる屍として狂っていたと思います。夏侯惇さまが生きている、安心している自分がいます。たくさんのひとを殺したくせに、たったひとりのあなたが生きているその事実だけが、わたしを正気につなぎとめています。
わたし、夏侯惇さまのことが好きです。
きっと、おとうさんとかおかあさんへの気持ちといっしょだと思うけど、ほんとうのことはわかりません。わからなくなっちゃいました。
わからない。
人の気持ちなんて朝霧みたいに、ふわふわしてて掴めないものだけど、ほんとうにそうですね。
わたしは人間だから、人間のはずだから掴めない。
あのね、夏侯惇さま。
おぼえてますか?よく想い出すんですよ。
幼いわたしは、赤ちゃんのようによく夜に泣いて、夏侯惇さまはそのたびに、いまのように添い寝をしてくれましたね。こわかったんです。おばけがでてきて、食べられちゃうんじゃないかって。暗いのがこわかったの、また、ひとりぽっちになっちゃったんだって。
わけがわからないうちに、たぶんいた、おかあさんにおとうさん、おにいちゃん、おねえちゃん、おとうと、いもうとがどっかにいっちゃって夜の草原を当てもなく歩くことになっちゃうんだって。寒かったのよ。すごく寒かったの。震えました。こごえたのは夜風だけじゃなかった。
孟徳さまに拾われて夏侯惇さまに預けられて、ひとりじゃなくなったのにどうしようもなく、おそろしかった。
こわいこわいってむせび泣くわたしを、夏侯惇さまは大きな腕に抱いて、だいじょうぶだって、言ってくれた。お歌を歌って、おとぎばなしを話してくれた。ちゃんと、寝れるように。寝たあとも朝までずっとそばにいてくれた。あったかい胸が、腕が、いつまでも好きで気持ち良かったこと、しあわせいっぱいだったこと覚えています。あなたと過ごせた時間は、人生で一番のしあわせだった。記憶がなくなっちゃったわたしの、一番すてきな思い出。たぶん、もう、ない。こんな。
あなたにとっては、ほんの些細なことかもしれないけれど、わたしにとって、その優しさがどんなに心強く安心できたことか。宝石みたいにきらきらしてるたからもの。
一番、大切でした。
夏侯惇さまは優しいね。
とってもとってもとってもとっても優しいですね。長い間、あなたに育てられたから、あなたのそばに居れたから、あなたの優しさをすごく知っています。きっと、どこのだれよりも。あなたの情けが、この身体のすみずみに染み込んでいるのです。
夏侯惇さまはすごく優しいね。
だのに、殺してほしいだなんて懇願するわたしって、なんて残酷なんだろう。でもね、わたしのためだけじゃないよ、夏侯惇さまのためでもあるんだよ。また、いつあなたを殺そうとするか。
そんなの、嫌。
わたしは認めない。
殺しなんかしたくない。耐えられない。
だのに、殺しました……………罪のないひとたちを、残酷に……………。
だから、だから、死にたいって思うの。生きていれば、そのぶんだけ夏侯惇さまも、夏侯惇さまだけじゃない、みんな、孟徳さま、明雪さん、子桓さま、姜維も、危ない目に遭うかもしれません。わたしの近しいひとたちが、人殺しのわたしがいるせいで死んでしまうかもしれない。いやです、いやです、そんなのいやです、殺したくない、殺したくない、殺したくない……………。
わたしを殺してください。
わたしに罰をお与えください。
死んでしまいたい。できるなら、大好きなあなたの手で殺してほしい。あなたの手で死んでしまいたい。
……………すみません、わたしのわがままです、ごめんなさい。でも、お願いです。
無駄な血を流さないでほしい。わたしが犯した過ちで苦しむのは、わたしじゃなくて夏侯惇さまでしょう?
夏侯惇さまに辛い思いをしてもらいたくない。
夏侯惇さまはやっぱり優しいから、まっ白すぎますから、夏侯惇さまの優しさは並みの優しさとはちがう。すべてのものに、愛しさと慈しみを捧げるんです。誰にでも、食料にされる牛や豚にでさえも。
ひとの苦しみを知らず知らずのうちに背負ってしまうのですね。苦しまないで。いつか、苦しんで苦しんであなたが無くなってしまう気がする。
おねがいです。わたしのせいで、苦しまないでください。自分のためのしあわせを追い求めてください。しあわせになってください。自分よりも他人を思いやる夏侯惇さまこそ、まわりはあなたのしあわせを願うのですよ。
あなたの人生の大半を、奪ってしまってごめんなさい。
ねえ、夏侯惇さま。
愛ってなんでしょう。ひとを好きになること、想うこと、大切にすること。
愛ってなんでしょう。
ひとりに限ることではないですよね。好きって、いうのと同じもの。
なら、好きってなんでしょう。