赤紅の傷痕

□三
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香を焚き、染み込ませた布を嗅ぐのが曹操は好きだった。曹丕、曹彰、曹植、曹熊四兄弟の実母にして曹操の正妻である卞美安は布を差し出す。

「あなた。もっと平等に側室の方々を愛してなさってはいかがですか?」

歌妓の出でありながら賎しさなき上品な佇まい。肌は白く清潔で、髪は黒く若々しい。けばけばしい豪華を嫌い、清貧を重んじる夫人の着飾るものはひとつの簪と、耳飾り、それほど上質でもない絹の衣である。

「我としては差もなく接しているわけだが」

「操さまがそう思っておいででも、方々はそう思っていないようです」

曹操は香りを楽しむふりをしながら、美安の言葉を待った。

美安も、言葉の文を考慮していた。美安は自分を含めた妻妾たちについて、夫に訴えるようなことは控えてきた。曹操の肩には並みならぬ多くが載っているのを承知している。まだ名のちいさかったころから、そばへと侍り、行き詰まりながら辛酸を掻き分け舐める姿。見守ることしか出来ずに。だから、妻として癒やしてさしあげるべきだと、ずっと心していた。

たかが女で気を煩わせてはならない。

曹操も、その手の話題に知恵をひねることは好んではいない。

香りが染みだし、周囲に漂う。

「幾つになろうと、女ごころというものは、わからん」

「わたくしも、ひとさまの、とくに同性の気持ちは苦手です」

「得手とせんものを、我が知ろうとするのは無駄なことだ」

布を離すと、ひらりとたれ落ちる。桃の花びらが自然の成り行きに沿い、散るのに似ていた。卞美安の膝に頭をおいた。

美安の指に髪が何重にも絡み、こめかみを撫ぜ、摩擦を加える。固まっている筋肉がほぐされて頭を軽くする。生来の頭痛持ちである曹操にとっては欠かせないことだ。催促するでもなく揉んでくれる卞美安。長年の意志疎通の賜物である。

この妻の膝は、羽枕だった。すこし、理嬢と似ているのかもしれない。顔立ちや雰囲気はまるで異なる。しかし、卞のものだ。

「美安」

「なんでしょう。あなた」

「そなたに、ねたみはあるか」

「もちろんあります。女がつくくらいですから」

嫉妬。ふたつの文字に、女が存在する。そして、疾風のごとく速く、石のごとく揺らぐことはない。おんなならば、誰しも持つのだろうか。

「そなたに嫉妬は似つかわしくないな」

「操さまが思うだけ。わたくしはずっと、華やかな汚泥のなかに身を投じていた女ですよ?」

それでも、卞美安はきよらかだった。側室として召したときは、歌妓の出と前妻の丁濤からは蔑まれていた。気位の高い女で名門の出だった。あいだに子を成すことはなかったが、さらに前妻の女との子、長男で嫡子曹昂、次男曹鑠、長女曹純姫を実子以上に育てていた。曹昂が死んだ際、曹操が殺したと怒って里に帰りそのまま離縁してしまった。すぐに卞が三番目の正室に迎えられたが、側室のころと変わらずに丁濤に尽くしつづけていた。

分を律儀に守る女だ。

「いまは、ちがうのか」

「ええ。でも、むかしにくらべれば、ましなほう」

ころころと、つぼみのように笑った。紅をさしていないのに赤い唇が、きれいな弧を帯びる。身を起こして、かぶりついた。

指先が、曹操の頬に吸いつく。長く、くちづけをして、曹操は美しい白肌をちょっと紅潮させた正妻の顔を見つめた。

「あなたのお心が、わたくしに向いていると想うと、ほっとします」

「たまらなく、向いておるよ」

「やっぱり、いつでも嫉妬はするわね。正室にしてくださっても、子どもを四人も生んでも」

「側女たちとは、ちがう。我にはそう写る」

「変わらぬもんですか。ほかの女のかたがたと、いっしょ」

「美安は美しい。そして賢い。おのれの良きところも悪いところも、把握しているではないか」

「自分のものだけ」

「我のこともよく知っているはずだ。ふたりの正妻より、あまたの側室のなかで一番と思う」

「ほんとかしら」

「虚を言ったところで、なんにもなるまい」

「わたくしの朗君は切れ者の曹丞相。聡いひとの真偽は察せないのです」

「へりくだるな。思うままに言ってみろ」

「まあ」

「男と女の関係は何度も頭を痛ませた。我の頭痛と変わらず、治まったり激しくこじれたり。隠そうとするのがいかんのだろうな」

「包んで隠したりしなければ、人の世を生きることはできませんわ」

「開けっぴろげにもせねばならんだろう。なあ、美安。たまには本音で言い争ってはみぬか」

特別に。曹操は丞相という仮面を脱いで、無邪気に笑った。豪快でときどき突拍子もない行動に出る若さが、まだまだ溢れている。いつぶりかしら。卞はつられるままに、汚れのない、ずっとまえの少女に戻っていく。

「ほんと?」

「うん。どうぞ」
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