赤紅の傷痕

□ニ
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物憂げで冷ややかなる目元に、くっきりと陰影が宿る。ひとつしかない明かりは暗やみを増し、雪なる肌の深みを濃く彫る。

極寒の冬へと進む季節の便りが運ばれて来た気がする。それに混ざり、甲冑の音も馬の嘶きも聴けた。

「春が終わる頃には帰って来られるかな」

「理嬢さまも、お元気になられているでしょう。なまめかしいくらい、このお屋敷の庭は際立ちますから」

「だといいがな」

「きっと、よろしくなります。ええ、きっと」

「気休めはいらん。医者でもないくせに、大口を叩くな」

明雪の肩が小さく弾かれ、俯いた。燭台を持った手が、震えている。

「申し訳ありません。でも私はそんな気がしてならないのです。身に堪える冬が来て、暖かな春が来ることが良い方向に向かうと」

「もしも、か。推測の域を出ぬことだな」

「誰しも先のことはわかりませんわ。予想をめぐらすか想うか、それだけですが、私だったら存分に想います」

理嬢が回復するとは想像できなかった。春になれば、色の馥郁とした花が咲き、はしゃいでいた理嬢はもう見れないのだ。その前に、曹操がつれて帰るのだろうから必然的に見ることはない。そして、自分には妻ができることになる。

初めての華燭の儀。同時にできる息子。これを期に、理嬢とのすべての縁は断ち切られることになる。

「だが、明雪は長く曹夫人に仕えているからな。一応、期待はしておく」

顔を上げて、凝視する明雪の眉は寄っていた。

「元譲さま?」

私の知るあれは、もういない。あれは曹夫人である。女房がいずれできる我が身。今になって、思い直した。過剰に接することなどなく、むしろ今までのことは不自然だった。

「曹夫人も、お前を気に入っているし、私などよりもよかろう」

「なっ……………」

夏侯惇は遠くを見つめていた。どこかのあきらめと、不甲斐ないほどの気の抜けた呼吸とともに。

「私は元譲さまには及びません。理嬢さまのお近くにいらっしゃったのは、あなたさまではありませんか」

曹夫人の名を重くして言った。押し返すように言葉を返す。

「ずっと以前だ」

「理嬢さまは理嬢さまですよ?変わりはありませんでしょう。そのように突き返しなどなさらないでください。これからも、お元気になられるよう、そばにいらしてください」

「これからは、お前がそばにいてやればいい。従兄上がお迎えに来たら、そのまま付いていっても構わない」

「ほんとうに、あなたさまのお考えですか?私にはそうとは思えません」

「虚言は言わん」

「軽薄だとは感じないのですか。私なんかより、理嬢さまは元譲さまを頼りにしています。理嬢さまには元譲さまが必要だと考えて参りました。ずっとずっと昔から」

「戦が無事に明ければ妻を娶ることになるだろう。従兄上から課せられた役目は、終わったことになる」

私の役目は幕を閉じた。役を辞めた。止めた。妻のことは、明雪にとって初めて聞く話であった。頭を殴打されたたのにも似た錯覚に陥る。

「それとこれとは関係が」

「無いとは言い切れない。私は妻を娶る。それなのに、どうして従兄上の妻に懸念などできようか。万が一に曹夫人が私を必要としているのなら、関わりなど既に無くなったと教えてやれ」

「親子のような。いえ、親子の間柄なのではないのですか。奥さまを迎え入れるからと言って、断ち切れるものではないはずです」

「むきになるな、明雪。世間一般の常識だろう。人の妾の世話をするなど、いかがわしいとしか捉えられん」

「なにがいかがわしいのです。清らかだと私は思います。本当に、本当に、結びつきを絶つのですか。理嬢さまは望んでなどいるはずありません。だって元譲さまがいらっしゃるとあんなにうれしそうなお顔をなされるのですよ。まさか、知らないなんてこと」

明雪は叫びにも近い声を出したが、夏侯惇は背を向けた。

「非道すぎます。非道すぎますっ…………」

届かなかった。

見捨てるのですか。

夏侯惇は理嬢を放逐したのである。あまりにも唐突で、身勝手に。部屋の扉を閉めたとともに、灯が消えた。

明雪は受け止めることができなかった。側室のための教育という関係だったけれど、あんなにも親密な関係で、それこそ父娘のようで。怪我を負えば気を配り、病気になれば付き添い看病にあたり、仲むつまじいものであった。だのに、容易く冷血な主人に成り下がった。変わってしまわれた。

おやさしい旦那さまが変わってしまった。心中は、知る由もない。どんなに辛い葛藤や苦難があったとしても明雪は震えた。寒さのためではない。

寝台に腹這いになって目を閉じると、当然のことながら暗くなった。黒を背景にして、色の区別がつかない点滅が幾千の虫としてうごめく。水紋のように波上に広がる点滅。

胸のなかに、心の臓とならぶ腫瘍があった。無理に消そうともしなければ毒薬にはならない。それでも、消そうともせず、ずるずると延ばしていれば蝕む毒になる。

たちの悪い病だ。毒と、できものは理嬢である。あんな娘なぞ引き取らねば、あんな葛藤は生まれず、おだやかに日々を送り、夏侯淵の通り、妻を娶り子を成し、愛息を伴い戦場に鞍を並べ進撃する時を楽しみに待つ平凡な父親として、息子たちに手を焼いていたかもしれないのだ。

私は俺の持つべき幸せを奪われたのではないか。

あの日から、私の生涯は狂わされたのではないか。あれは俺の運命を狂わしたのだ。何年にもおよぶ病は、現在心を蝕んでいる。

逃げたいと思った。

断ち切れるのは遠い未来ではない。

寝返りを打つ。外は明るくなっていた。

使用人のひとりが朝食を運んできたが、一切手をつけなかった。

ただ無意味に時が過ぎる。聞こえてくるものがある。曹夫人をかしづいて庭を散歩しているのであろう侍女たちのかん高い声がする。

冷血な主人が息を潜めているのをよいことに、咎人のように閉じ込められていた女を外界へ連れ出した。歓喜が五月の蠅のように煩わしい。当てつけか。どこかよそに行ってくれ。すくなくとも、俺の耳が届かぬ場所へ。それでも近くにあろうととがめるようなことはしない。
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