赤紅の傷痕

□ニ
1ページ/7ページ




出立の日まで、刻の間隔は狭まっていった。兵糧の確保、選りすぐりの馬、手入れが込んだ武具が着々と集まった。従軍が決まった将たちには、張りつめた緊張の糸が自覚あるなしによらず、できあがっていた。夏侯惇もそのひとりである。しかし、夏侯惇は石臼を縄でくくりつけられているようなものだった。

不利な条件を負っているからだ。左目がない。そのため、常人が持っているほどの視界が半分しかないばかりか、遠近感覚さえも思うように掴めない。敵が跋扈する戦場において、首を差し出している状態に等しい。

当初、片目が亡いことで、頭痛がしたり吐き気を催すこともあったが、今では落ち着いている。普段の生活も難なくこなし、なにより半分の世界に慣れた。

周囲は夏侯淵と区別すべく、夏侯惇を盲夏侯と呼び、苛立ちを煽った。醜い左半分が鏡に写ることを夏侯惇は嫌い、鏡を叩き割った。屋敷のほとんどの鏡が粉々になることなった。普段の静さからは想像できない姿だが、物に当たるほどの激情が、よい芽を出すことになる。焦燥が、失った左目の代わりとして耳や他の感覚を良くさせたのだ。

それでも戦では安心とは言えない。身体に欠陥があることで自身はおろか周囲のものたちをも命の危機にさらすことになる。ひとつの軍を率いるならば尚更だ。博望波の戦いは物語っている。隻眼になってからの戦いで初めての敗北を味わい、夏侯惇はより注意深く、より沈着に動くようになった。曹操だけではなく諸将も隻眼の男の培われた慎重すぎる物腰、両目があるものに引けを取らぬ強さに一目置き接する。

同情なき敬意として。盲夏侯などという蔑みにも似たあだなを口にしたりなどしない。

夏侯惇は夢を見た。

目覚めは最悪だった。

夢のなかで得体の知れぬ白い生き物に出会った。白い肉塊には眼も無く、鼻も、耳もない。手足すらなく、あるものは、ぽっかり開いた孔。息をしているのか、時節ひくひくと動いた。

それは逃げた。蚯蚓にも似ている。のたうちまわり、這いつくばって行こうとするがゆるさない。夏侯惇は利き手に持った細剣で白磁の皮を突き破る。弧を描きながら、弾力と厚みのある奥から粘着質の紫色の体液がほどばしった。

憎かった。どうしても憎かった。身体じゅうが、鳥肌を作りこいつを拒む。憎い。理由はないのに、憎くてたまらない。

何度も何度も振り下ろす。液はこれでもかというくらい、噴き出した。思考が途絶えたまま濡れるのを構わずに、刺し続ける。断末魔とも言い難い奇声を上げた。

死ね、死ね、死ね、死ね。

容赦などしない。苦汁の死を祈る。

抵抗のつもりか、激しく跳ねていた肉塊は、徐々に弱くなり、動かなくなった。死んだのだ。まるで、白い蜂の巣である。

細剣を手を離し、紫色にぬめった手で頬に伝う液をぬぐい取ろうとしたとき、気づいた。紫だと。これは赤ではないか。

全身が黒いくらいに真っ赤に染まったままで屍と変わり果てた姿の隣に、突っ立っていた。屍の眉間についた液体が、鼻を伝い鼻先からぽたりぽたりと滴になった。身体じゅうに無数の空洞が開いた屍。

白肉のかたちは、理嬢の姿を成している。

叫びと共に、はね起きた。寝巻きの合わせ目が乱れていたが、整えることもなく、寝台から降り、卓上の水瓶に口を付けてあおる。息をつかずに飲み干し、噎せた。大量の水がおかしなところに入った。口を拭う。紅くはない。さして冷えてもいない少量の水が臓器を満たした。

卓に両肘をついて頭を掻きむしる。夢だ。あれは、夢だ。汗が全身から吹き出す。せわしない溜め息が出る。

戦間近で気持ちが高ぶっているためだ。戦でのひと場面が、敵兵が、特有の感情がすり替えられただけにすぎない。夢だ。現実には存在し得ぬこと。だが、感触、感情、視覚のすべてがまざまざとすぐに思い出せる。本物のようだった。しかし、夢。夢である。

部屋から回廊に出た。明け方近くのはずだが、まだ曙光も射していない。

風はないが、外気に触れたおかげで、汗が冷える。欄干に手を突いて庭を向いた。暗闇に浮かぶ緑の葉たちが、ひっそりとたたずんでおり、おいでおいでと手招いているようにも見える。どこへいざなわれるのか。

黒のなかに、ふと灯りが淡く点った。明雪が、燭台を持ってこちらに歩いて来ていた。

「明雪か、早いな」

「ご朝食の下準備をしようと」

「ご苦労なことだ」

「まだお休みになっていらしたらよろしいですのに」

「目がさえてしまって。寝るのはいささか難しい」

「しかし、冷えます」

そして、夏侯惇の横を通り過ぎるものと思っていたが、少しの距離を保ち、立ち止まった。

「震えておりますよ」

「もう秋の暮れだからな。お前こそ、寒いだろう」

「ちゃんと着込んでいますから。元譲さまはそのような薄着をお止めになったほうがよろしいかと、ちゃんと暖をお取りください。それと、お部屋の炭がなくなる前に、お呼びください。炭の備蓄はたっぷりありますので」

女性ならではの、どこか柔らかい声だった。

「しっかりした明雪がいるのは安心だ。気がついてくれるのは、うれしい」

「お褒めのことばですか」

「そのつもりだ」

「しまっておきたいと思います」

「それほどのものではないだろうに」

「元譲さまには、些細なことかもしれません。でも、私にとっては身にあまる光栄ですもの」

忠実な奉公人の心境に、すこしばかりの気恥ずかしさを感じた。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ