赤紅の傷痕
□四
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眼の前に広がるもの。
無惨に引き裂かれた己の着物。細々になった、思い出があった品の数々。ひび割れた百合の花の模様が施された、箏。嫉妬と憎悪が入り混じった女たち。
壊してしまうのは容易。修復はできない。
わたしが、なにをしたっていうの。
口のなかに、布切れを詰め込まれた。言葉が周囲を鳴らすことのなきように。
半裸のまま手足を縛られ、床に横たわっていた。女たちは理嬢を取り囲み、髪を引きずり回し、身体じゅうを蹴り、殴る。所詮は女の力、さほどのことはない。しかし、じかに肌に与えられる衝撃は、耐えるのに苦だった。
痛みか、かなしみか、恐怖か。視界がぼやける。
いっそのこと、気絶してしまえばいいのに。それは女たちの手では無理のようだ。
甄優が帰って半刻もしないうちに、女たちはやってきた。手足を固定され、口をこじ開けられて猿轡をされ、縛られ放り出された。着物を引き裂くと、見ていろと言わんばかりに、理嬢に関するものを崩した。曹操の寵が薄れた妾たちは大いに嗤った。腹を抱え、指を指し罵り、やんややんやの手を打ち笑い転げた。
痛みではない痛み。此処に、居たくない。自由な足がある。身体を起こして、逃げることができるかも、しれない。でも、できないかもしれない。
身体が、逃げようとしていた。逃亡に気づいたひとりが足をかけて、転ばせる。一瞬、宙に浮き、否などなく胸から落ちた。呼吸が止まった。鼻からの息吸いでは酸素が足りない。
汚い言葉で嗤う。
自業自得だ。
そうだ、そうだ。自業自得だ。
ざまあみろ。
自業自得?わたしがなにをしたというのですか。
理嬢は首をもたげた。抗議する眼差しに気づいたひとりが、自分がどうしてこのようになっているか把握していないようだなと言った。
主人格であろう、狐目の妾が、足先で理嬢の顎を上げた。そして、そのまま蹴る。上半身が反り、横に倒れた。妾は、虫を踏みつぶすがごとく幾度も、にじる。
生意気な小娘め。
身に覚えが全くない。どうして、わたし。
あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか。
他の妾たちも加勢する。
調子に乗るな。
醜い。汚い。すごく、すごく、非道いこと。わたし、なんにもしてないのに。
顔をあまり狙わずに当ててくる。顔に傷があれば、曹操の咎めを受け、小娘がこの私刑を口にする可能性があるためだ。だが、もともと妾は主人の夜の相手をする存在のはずだ。帯を解いて肢体をさらせば、視えないものは視えるようになる。その前に、部屋を荒らす時点で起こったことは明白である。まさか、散らかしたものを整頓して出て行くわけではなかろう。女たちのするべき目的は、理嬢を痛めつけるのみ一点。ほかに、思考が回らないらしい。
痛みに慣れた。感じる線の一本、一本、採られていくようだ。麻痺した感覚でも、頭は気持ちよいほど冷えて、冴えていた。わたしが、なにをしたの。ぼんやり考えてみた。やはり解らない。自業自得で、生意気で、悪くて、調子に乗っている?わからないです。わたし。
孟徳さまに、殴られたり叩かれたりしたときは、わたしが悪いと思っていました。だって、わたしは嘘をついたから。子桓さまと話をしていたのを、してないって言いました。だから、孟徳さまは怒っていたんです。
すこしして、孟徳さまは、ちいちゃな猫をくれました。まだ、こどもで、やんちゃで、いたずらっこな、愛くるしい白猫でした。いっしょに、孟徳さまは優しくしてくださって、優しくし抱きしめてくれたり。頭や頬を撫でてくれたり、口に、唇を吸ってくれたり。
あなたたちも、わたしと同じことをしてもらってるはずでしょ。大差ないのです。
どうして、わたしだけ。
わたしは、なんにもしてない。
なんか言ったらどうだ。
聞いているのか?
ごめんあそばせ。話すことができなかったな。
面白味のない芝居劇か。もともと綴られていたかのような言葉を発しながら、足踏みを止め、理嬢を仰向けにした。曹操の寵愛を受ける側室は虚ろな瞳だった。口から布切れが取り出され、息の拘束がなくなり、大きく胸を膨らませた。
「どうして…………」
豚め。鳴け。
顔を近づけて罵る女の表情は、ひどく醜いものだった。蜘蛛のように、指を動かしているのもまた同様も。
「わたしは豚なんかじゃない……………」
睨んだつもりだった。囲む妾たちの棒のように細い姿、ひとつひとつを睨んだ。憎しみを込めて、言った。
「わたしは豚なんかじゃないっ」
乾いた音が左頬から鳴った。口のなかに、わずかな鉄の味がじわじわと滲む。
豚が。人間さまに逆らうな。
家畜は餌のことしか考えていない。人間の言うことなんて、耳に入るわけないではないか。
それもそうだ。なんて、馬鹿で能無しの豚だ。
ならば、この哀れな豚に、躾をしてやろうではないか。
「いい加減にしてください……………」
おぞましいことだ。女たちは、店先で装飾品を品定めをするように、軽い口取りで会話を楽しむ。言葉は汚れを帯び、木霊する。
前脚を離してさしあげましょう。縛りが解かれた。腕がだるい。
四つん這いで歩け。
唇を真一文字に結び、頭を振った。
歩け。
「ふざけないでください」
拒絶を表し、もっと強く頭を振る。髪が揺れ、髪の房と房の間が、小さく光ったのを、狐目の妾は目ざとく見逃さなかった。残りに手足を押さえつけ、理嬢の左耳をまさぐる。白玉の耳飾りを外した。摘み持ちながら、白玉と理嬢を交互に見る。
理嬢の顔が蒼くなった。
「かえして……………」
こんな高価そうなもの、持ってる必要あるのか?
「返してっ」
大切なもの。
夏侯惇から貰い、対になっている白玉の片方を姜維へ。言わば、あのひとたちの分身だった。理嬢の大切な、あのひとたち、そのものだった。
「返してよっ」
重い身体を叱責し、飛びかかるようにして手を振り上げた。だが、難なく身をかわされ、勢い余って床に転がった。まだ、女の手の内で白玉は弄ばれている。
豚が二本歩きをした。
かえして、ちょうだい。
「かえしてください」
うわごとのように、つぶやきを繰り返しながら、立ち上がる。高い笑い声は耳に届かなくなっていた。
ぶつぶつと辛気臭いことだ。耳障りもよいところだ。
理嬢の背を押す。つぎは倒れまいと足の裏に重心を置く。心のどこかで、負けるな負けるなと叱咤する声が、幾重にも連なっていた。声は、女たちに聞こえるはずなどないが、呼応する理嬢の態度に苛立ちを募らせた。
色素の薄い瞳の色は、精気を養う。
その目は、寄ってたかる下等な戦をするものたちに恐怖を与えた。泣き寝入りをするだろうという思惑は掻き消える。
「大切なものです。お返しください」
水を掬いあげるように、手で器を作り、突き出した。狐の妾は柳眉を逆立たせ、白玉を投げ捨てた。大きな弧を描き、消え入る音を立てて、台や調度品の物陰に姿をくらます。あっ。描かれた残像を頼りに駆け出すも、許されなかった。二本ずつある手足を捻られる。狐が頭を足のかかとで押さえつけた。はなして、はなして。
「はなして、なんでこんなことするの……………」
獲物を狙い、地面を這う忌みが、部屋じゅうを這い回る。
むかし孟徳さまに拾われて、ちやほやと育てられたとか聞いているが。
狐目がより細くなった。
おまえは、孟徳さまの暇つぶしだ。ただのお情けで、別に遊ばれることしか使い道のないおまえを、欲の吐き出しとしているだけだ。子どは、おもちゃが大好きだろう。でも、新しいおもちゃをあげると、前のものには目もくれない。勝手だ。おまえが新しい孟徳さまのおもちゃで、こちらは飽きられたほうの、おもちゃだ。
「理不尽だっ。理不尽すぎるっ」
わたしも、あなたがたも玩具なんかじゃない。
理嬢は動けるかぎり、身体を跳ねさせた。
大声を出すなっ。
「あなたたちだって、孟徳さまに愛されていらっしゃるでしょう?それなのに、ひどいよっ」
とんだ世間知らずだ。男なんて我がままな子どもと大差ないのだ。
「孟徳さまはっ」
こんな馬鹿げたことで、わたしは、叩かれ、蹴られ、罵られて。孟徳さまの、やさしさをこのひとたちは、忘れているのだ。孟徳さまはそんなひとじゃない。
「ちがう、ちがうんだから。孟徳さまは、お優しいかたです」
おまえが夢を視るのも、気に入られてる今だけだ。前はそうだった。なんて、やさしいかたなんだと。
髪を掴みあげ、床に叩きつける。意識が飛びそうになるのを、必死で堪えた。
新しいおもちゃから引き離す方法を教えてやる。おもちゃを棄てるか、隠してしまえばいいのだ。
女のなかのひとりが、扇をあおぎながら暗く呟いた。冷たい炎の興奮が、寒気を伴い、包み込む。
手を取り合っていろいろと模索していた。おまえの侍女を買収した。呂后がしたように手足を斬って目をえぐって、口と耳を潰してやろうかとも思った。しかし、そうなっては表沙汰になる。最近、人殺しもさっぱりなりを潜めてしまったから、なすりつけはできない。だから、毒を使うことに決定した。豚め。運がいい。おまえの代わりに、猫が死んだんだ。
百合を殺したのは目の前にいる人間たちだった。
叫び声が聞こえたとき、最高に幸せだった。運がよいと思った。でもおまえは生きていた。しぶといったらありゃしない。
さすがは豚だ。
「このひとでなしっ」
理嬢は押さえる手を振り払い、初めて人の顔を殴った。
「百合になんてことをしたのっ。あの子は悪くないじゃない、悪くないじゃないっ」
狂ったように相手の襟を握りしめ、叫んだ。必死の形相に女は怯まず、頬を平手打ちにする。
偽善者。昨日、おまえは死ぬはずだった。猫は、おまえのせいで死んだのだ。
猫だけじゃないぞ。
なんでおまえが生きている?ほかの人間の命を食いやがって。