赤紅の傷痕

□二
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「知ってはいるが、わからぬよな、そなたは」

戦が近い。一年ほど前、博望波にて差し向けた夏侯惇、于禁、李典らが火攻めで劉備らに撃退された以来だ。敗北した戦から、今までの間を無意味に時を過ごしていたわけではない。南に腰を下ろしているものどもを討つ下準備を、着々と進めていた。荊州の劉表を一番の標的としている。そのほか、江東の虎とあだ名された孫堅の次子、孫権。

劉表が曹操の侵攻に恐怖し、孫権を頼る可能性は高く、その場合、孫権との対峙は、まず避けることはできぬ。そして、必ずや水上での戦いになるのは間違いない。江東には、大きな河がある。長江だ。

南を征伐すればいい。この曹操に、対等の敵がもういない。

自分が、平定する。

帝への憧れは、べつにない。帝は帝、我は我。あくまで、帝を補佐する丞相として動くつもりだ。

実際、曹操の手には皇帝以上の力があり、帝は名ばかりの存在だった。言わば、傀儡。名だけの力など必要ない。しかし、腐ってもなんやら。帝国の長であることには変わりなく、天子という神聖な血が流れていることに変わりなかった。だから、つながりを強めることを忘れなかった。帝の義父としての役をも担っている。娘たちである曹慶、曹節、曹華の三姉妹を妃にしたのだ。丞相と義父。その二面が、地位を確立していると言っても過言ではなかろう。

「お茶がはいりました」

盆の上の茶器から、ゆらゆらと立ち上る湯気が、日に当たり、きらめいている。

百合が理嬢のもとへ走ってゆく。

理嬢は曹操の側に腰を下ろし、じゃれついてくる百合に気をつけながら盆を置いた。茶杯を手渡す。

「熱いので、お気をつけください」

嵐の前の静けさにも似た、穏やかなひととき。浸ろうとするが、舌の上の熱さに引き上げられてしまった。苦々しく思ったが、百合と遊んでほほえむ理嬢に、また浸れと、引きずり込まれそうになる。

溺れそうだ。いや、溺れている。

笑い声が、耳をくすぐる。

始めようとする戦はいつまで続くのだろうか。戦前に、収穫があり、刈り終わればすぐに出陣する。兵糧の心配はない。焦りは禁物だ。確実に、確実に、潰して進め。指示をする、報告を受ける、熟考する、ありありとこれからの計画が浮かんでくる。

「孟徳さま。おかわりをなさいますか?」

理嬢の声で、茶を飲み干したことに気づく。黙って茶杯を差し出した。茶杯に、薄い黄緑色の 湯がたまってゆく。また、ゆらゆらと湯気が立つ。

「理嬢は、茶を淹れるのが上手いな」

「ほんとうですか?ありがとうございます」

心底嬉しそうに、理嬢は笑った。

そういえば、夏侯惇も茶の淹れかたが上手かった。夏侯惇から、茶の淹れを教わったのだろうな。世話役に押しつけていたことを、忘れていた。あの男は、箏を奏でるのも秀でていた。理嬢が弾いている姿は、まだ目にしたことはないが、いかがなものだろうか。
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