赤紅の傷痕

□四
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空が、厚い雲に覆われた二日経った日のこと、曹丕が夏侯邸を訪れた。

「丕」

居室から応接間へ足を運ぶと、曹丕は思い詰めた顔で頭を下げた。落ち着かないようで、目がうろうろと動いている。そして、早い口調で話し出した。

「お願いをしに参りました」

「どうした」

「屋敷へ、いらっしゃってください」

「それは、またどうして」

「父上は……………狂ってしまったかもしれません」

馬鹿な。鼻で軽く笑い、曹丕の肩に手を添える。従兄上が狂うわけがないだろう、と。理嬢が側室となったことに、まだ動揺が冷え切らぬのだろうと。曹丕を椅子に座ることを促す。侍女を呼び、茶と菓子を運ばせた。

曹丕は、それらに軽く目を向けたものの、真っ直ぐに夏侯惇の瞳を射抜く。

「父上は狂いました」

「丕、気持ちを高ぶらせるな。側室は側室、とうに過ぎたことだろう」

「違います。姐々が、姐々が殺されてしまうかもしれないのです」

「殺される?」

小刻みに震える曹丕を見て、夏侯惇は眉をひそめる。理由を問いただすと、絞りながら、話し出す。堅く握りしめられた両手の甲に、爪の痕ができる。

「父上は、姐々をその手で打ちます」

「打つ?」

さんざんに打ちのめす。

理嬢を側室に加え、曹操の寵愛ぶりは人目をはばからなくなった。執務をするにしても、わざわざ屋敷から呼び出して、常にそばに侍らしている。

突然、侍っている理嬢の頬をはり倒し、さらには蹴り上げる。乱暴は理嬢が気を絶するまでつづき、床には血が滴り落ち、曹操は返り血をうれしそうに見つめ、舐めとり笑う。だが、曹丕が直接、眼にしたわけではない。丞相府の人間が、話しているのを耳に挟んだという。

「戯言ではないのか?従兄上が、そんなことを?信じられんな」

「間違いではありません」

「人づてに聞いただけなのだろう?真偽のほどは、さだかではない」

「私は、姐々に会いました。そのときの、姐々の顔は殴られたかのように、傷だらけでした。転んだと、おっしゃっていましたが、あの閉ざされた空間のなかで、誰が、誰が姐々の頬を打てますかっ」

夏侯惇は卓に置かれた、まだ熱い茶をためらいもせず飲む。喉を通る熱に軽くむせた。曹丕は、膝の上の自分の手を見つめている。

曹丕にとって、藁をも掴む思いだった。あの父の子とはいえ、自分に父を制することはできない。夏侯惇に頼るしかなかった。

「きっと、本当のことです。間違いありません。お願いです、伯父上。父上を止めてください」

身を乗り出し、額を卓に押しつける。

「その傷を、会ったときの傷はまだ覚えているか?」

「ええ、はっきりと」

夏侯惇は何も言わず立ち上がり、応接間を出た。頭のなかでは、雀の顔が浮かび上がっていた。傷の顔。同じ顔をしている。確かに、奴はそう言った。

曹丕の言葉、雀の言葉が、奇妙に符合する。雀は何故そのようなことを知っているのだろう。狂言と捨て去るには、重すぎる。

部屋の前の庭園に立ち、雀は口もとに薄い笑みを浮かべ、どこか哀しげな色を漂わせていた。しばらく造りもののような横顔ともに、たたずんだ。

崩さぬままに、なんだと言った。来い。と言うと、黙ってついてきた。

長い回廊。

雀を目の前にした曹丕は、勢いよく立ち上がったまま、声さえも上げなかった。
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