赤紅の傷痕
□一
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夏侯惇は理嬢が正式な側室となった日から、十日間、出仕を断っていた。
仕事は使いの者が運んでくれる。
行きたくないわけではない。ただ、気が乗らないだけだった。出仕すれば、否が応でも曹操と顔を合わせなければならない。あの日を境に生じたわだかまりが、まだ消えてはいなかった。それも、直したいと思わないわけではない。機会がないだけだ。
内心、理嬢が殺しを犯して曹操が連れてきてはくれないだろうかと、不謹慎にも思っていた。
だがそれは、叶わないであろう。正体が殺人者だと判明すれば、曹操はその場で処刑する。それか、自分か配下の誰かが呼ばれて処刑するにちがいなかった。
曹操と顔を合わせていなかったが、息子の曹丕子桓は、毎日のように足を運んでいる。どうやら、姜維と話をしているようだった。二人の間に入り、話を聞いたことはないが、どちらもまだ年若く理想に燃え、未来に希望を募らせる年頃だ。心を入れ語り合うことがあるものだ。自分も、曹操とそのようなことがあったから、察しはつく。
曹丕が姜維に興味を持ったのは、父曹操が理嬢を側室として加えたことに不満を持ち、夏侯惇に責めるために夏侯邸に上がったときだった。
夏侯惇に話を聞かされていたのだろう。応接間にて、初めて顔を合わせた。姜維は自分が曹操の息子と知ると、花を渡してほしいと頼み込んできた。それから、どうしてか姜維ともっと話がしてみたくなり、足を運んでいる。植物や姜維自身の境遇、自分の得意な武術などを他愛のない話をしあった。
「……………花は、まだ枯れてはいないでしょうか」
草木の剪定をしながら、不意に、姜維は呟いた。
姜維が曹丕に託した赤い花のことだ。
「きっと大丈夫だろう。姐々(チエチエ)のことだ。水にいけていらっしゃるはずだ。それに、あれはまだ開きかけのものであったからな」
作業に励む姜維の背中を見ながら、曹丕も呟いた。
ふたりは膝をつきあわせて話はしない。いつも姜維が草木の世話をして、曹丕はそれを立って眺めている。そして、どちらともなく呟いてどちらかが言葉尻に乗っていく。そんなふうに過ごすのが常だった。
姜維は、木に咲いている枯れてきた花びらを、ひとつずつ丁寧に採り、地面に落としてゆく。今日は籠を背負っていない。調子が悪いのか、健全な花びらまでも採ろうとしていた。
「お元気そうでいらっしゃいましたか?」
「まだ一度きりしか会っていなくてな。できるだけ姐々の部屋の窓際まで行っているのだが……………人気がないというのか、静かなものだ」
「では、伏しておられるのではないでしょうか……………そうだ。まだ、お身体の調子が……………」
軽く焦る姜維をなだめながら、曹丕は訊ねる。
「ご不調なのか?」
理嬢が寝込んでいたことを、姜維は告げる。曹丕は、父の強行に眉をしかめた。女ならば、自分の奥殿にいくらでもいるだろうに。どうして、そのように息子と同じくらいの年の娘を、欲しがるのだろうか。狂気の沙汰だとしか、思えなかった。
「あのひとが不調だとは、珍しいこともあるのだな。幼いころは床に臥したと聞いたこともなかったのに」
「だから、心配です」
「姜維、お前は話に聞くと、薬学に詳しいと聞く。ならば、姐々のためにひとつ、病に効く薬草を煎じてくれないか?どんなものでもいい」
「……………いえ、病でしたら直接の症状を看ませんと。代わりと言っては……………ですが、女性のために身体を温める薬草を煎じますので、どうか」
藁にもすがるように頼む姜維の姿こそが、本当に愛する姿なのではないだろうか。初対面でありながら、姜維はこのように自分に花を託した。
愛しているのだ。直感した。真っ直ぐで、強い。愛しているという感情が、姜維の身体から、ひしひしと流れ、曹丕に伝わってくる。