赤紅の傷痕

□三
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足をついている。次は十歩も百歩も進んでいた。最初の足跡から、これまでの足跡のあいだについての記憶がない。

理嬢は目を覚ましたが、淀んでいた意識が明瞭になった感覚に近かった。延々と歪む水面が、急にひとつの波も立たぬまっ平らになったような。

ここはどこ。

見渡せば、見慣れた天蓋に、家具などが目にはいる。ここは自分の部屋、つまり夏侯邸だと知る。

また、眠ってしまっていた。まただ。ああ、まただ。理嬢は、気をつけようとしていたのに繰り返してしまった情けなさに、ため息をついた。

記憶が切れてしまうことが多いと感じる。自覚したのは、夜伽に呼び出されるようになった頃だったように思う。それよりも前から、記憶が途切れて突然の風景に驚くことはあったが。

おぼろなのだ。目の前の光景が潤んでいて、次の光景に行くためにはいつもなら歩いている。しかし、跳んで着地しなければならない。そんなふうだ。

わたしは、どこかしらで寝てしまう癖がある。不審に感じながらも、もっとも腑に落ちる説はそれだった。

今回も曹操が眠った自分をわざわざ連れてきてくれたらしい。きっと、そうだと自分を納得させた。

上体を起こすと、鉄のような血なまぐさい臭いが鼻についた。いま着ている衣がそれを放っている。これは、なんだろう。頭のなかの思考が追いつく前に、衣に爪を立てていた。このにおいは間違いなく血だ。赤茶色に固くなった着物だった。

声が出なかった。喉に力が入らない。悲鳴をあげたくなったが、あげられなかった。息が外に出て行かない。しかし身体は必死に動き回っていた。指が衣を掻き毟る。鈍い音を立て裂けた衣を脱ぎ捨て、寝台から放り投げた。

肌に血の臭いがついているようだ。だが、それだけでは終わらない。

露わになった両腕の傷痕にも、背筋が凍りつくような悪寒を覚える。記憶が正しければ、この引っかかれたような傷はこんなに無かった。それが確実に、傷の数が増えているのだ。いったい、どうして。記憶にない。自分の知らないところで、確実に増えているのは、なぜだ。

破れた布団で、裸を包み込み、うずくまり、自分の今の状況を把握しようと、意識を記憶に集中する。おちついて、おちついて、おちついて、おなまじないのように唱えていた。

わたしは孟徳さまに呼ばれた。

そして、どうしたものか。

抱きしめられる相手をした。そして、手を引かれ銅雀台という大きな楼閣を見せてもらった。そして、ああ、そうだ。とても綺麗で、完成するのがとても楽しみで、月にまで届きそうだったと思った。まるで、銅雀台に登れば月にまで歩いて行けそうだったから。その後の自分は、なにをしていただろう。覚えているといえば、驚いた曹操の顔だ。

水面が歪んでいない、空白のときがある。思いだそうとしても、霧が立ちこめるようにぼやけるばかりか、切り取られたように思い出すことができない。取り残されて、たたずんでいるわたしがいる。

どうして?

思えば思うほど、自然と震えが起こってくる。なにか、とんでもないことをした気がする。

手指。身体の記憶がある。

まるっきり覚えてはいないが、残っている感触を覚えているのは、たしかだった。この手で触れたものがある。
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