赤紅の傷痕

□一
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曹操が屋敷にやってきた。

理由は分かっている。理嬢を求めているのだ。夏侯惇の頭に、小さいが鋭い痛みが走っている。

「理を出せ」

「従兄上は、理嬢の体調を無視し尽くせと言うのですか」

「何日、我の世話をさせていないと思っている」

「不調では満足がいく世話はできません」


人殺し、もとい理嬢は夏侯惇が部屋に閉じ込めていた。

人は誰をも寄せ付けないようにしている。侍女たちにもそう言いつけてある。

食べるものと水は、夏侯惇が運んでいた。

既に六日が経つ。そのあいだに曹操は理嬢を求めて夏侯惇の屋敷を訪れていたのだった。

しかし、人殺しである理嬢を曹操に近づけるのは、どんなに危険なことだろうか。

巷を騒がす輩は、人殺しは理でした。そう言っても、引き下がるような男ではないことを夏侯惇は知っている。自分に娘を引き渡さないための見え透いた嘘ととらえられるだけだ。

要求を、夏侯惇は理嬢の体調不良ということで、回避していた。が、六日目にして、曹操の抑えはきかなくなってしまったらしい。

「具合が悪いのです。どうぞ、お引き取りください」

「そなた、分かっておらぬな」

曹操が睨む。艶と敵意はらんだ瞳を、むき出しにした。

「我の側室だ。そなたの所有物ではない。我の所有物を我がどう好きにしてもかまわぬだろう」

「従兄上。では何故、理を奥の殿へと入れないのですか。もう、理も二十歳になりました。私も、従兄上が奥殿に入れてしまえば、このようなことを申しませぬ。しかし、理嬢はまだ私の屋敷にいます。それまでは、教育者である私に決定する権利があるはずです」

「何を偉そうに」

「…………そこまでして、関係をお持ちになりたいか」

「関係だと?」

戦で人を殺すような瞳で、戦でしか見たことがない瞳を、夏侯惇に向けた。

息をのむほどに、威圧感があった。たまらず、眼を逸らした。

「この我が、男女の関係を求めているだけで、理を求めているとでも、思ったか」

いつもの従兄上であれば、その考えだったはず、である。

しかし、それがないのか。ならば、ただ、純粋に『理嬢』だけを求めているのか。

眼を直視する。

怒っている。燃えるように。

神経のひとつ、ひとつ、細胞の端から端までを怒りに変え、夏侯惇に向けている。

「相当、お怒りに、なられているようですね」

「当たり前だ。理嬢を出せ」

「申し上げましょう。できません」

「殺されたいのか」

夏侯惇は膝をつき、頭を垂れた。

「お願いします。理嬢の体調をどうか、ご配慮ください。まだ、側室ではない身です。教育者というより、子を想う親心だと、お思いになっていただきたい」

曹操は呆れかえり、ふん、と鼻を鳴らすと、夏侯邸を、あとにした。

もう、無理だろう。夏侯惇はそう思った。

曹操の瞳は本物だった。目は口ほどにものを言う。ましてや、それ以上ではないか。

瞳は、物語っていた。本当に、この自分を殺すつもりであった、と。

そして、知った。愛しているのだ、あの従兄上は。拾った娘を、理嬢を、心の底から欲し、愛している。

嫉妬に狂う男の瞳。あれは、君としての男ではなく、ひとりの男として。人間としての瞳なのだ。

夏侯惇は、ようやく頭を上げ、立ち上がる。

心が憂鬱としたまま、理嬢を思い浮かべた。

人殺しとしての、理嬢。

血に染まり、嗤った顔が浮かぶ。理嬢は、夏侯惇のなかで、人殺しとして刻まれていた。

忘れられないのだ。あの闇で、嗤う姿が。

「旦那さま」

侍女の声が、幻想から夏侯惇を解き放つ。

「どうした」

「そろそろ、理嬢さまのお食事のお時間ですが、今日も旦那さまが、お運びになりますか?」

よく見ると、侍女は料理を並べた膳を持ち、立っていた。

「ああ。私が行く。誰も、部屋には近づけてはいまいな?」

「はい、もちろんでございます」

安心したように、夏侯惇は目をつぶる。膳を受け取り、足を進めながら、再び、夢に入る。

あの夜、魂が抜けたように、崩れ落ちた。

その後、屋敷に人目をはばかりながら、連れ戻った。誰にも見つからなかったのは運がよかった他ならない。

実はと言うと、理嬢はこの六日間、起きなかった。一瞬でさえ目を開けることはなかったし、薄目になることさえも無かった。こんこんと眠りつづけている。

まるで死んでいるようだ。起きる気配は微塵もない。

顔についた血は拭きとった。腕と指と爪の血肉も拭いとった。髪に固まった血も丁寧に取り除いてやった。夏侯惇が手を出せる部分は、時に水を使って綺麗に清めてやったが、理嬢は血染めの着物のままだ。脱がせてやるわけにはいかない。

水を全身にかけてやろうかと思ったが、乾くには手間取りそうだったし、その前に風邪をこじらせると思うと決行し難かった。しかし、不快なる血のにおいは日を重ねて強くなる。今はまだ部屋の外に漏れ出ていないが、そのうち隠しとおせなくなるだろう。屋敷のものたちが不審を抱く前に、香を焚きしめて誤魔化そうか。
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