赤紅の傷痕
□五
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寝台で寝る理嬢がいた。または気を失っている。どちらでも受け取れた。
夏侯惇は寝台近くの椅子に腰を掛けてそれを見ている。
人形のような作り物のような寝顔だった。息をしているのかと、心配になるほど身体が動いていない。だが、初めて思ったことでもない。
何年も前から、ずっと思っていた。
子を持った感覚は知らぬ。だが、そうかもしれない。現在、夏侯惇には子供、妻や妾はいない。
曹操や夏侯淵の従兄たちにすすめられたことも幾度もあるが、どうしても娶ろうという気にはなれず、断り続けた。顔を立てて、娘たちにも会ったことがあるが、なんにも感じなかった。美しいだとか、可愛らしいだとか。女に大差などない。
女が居なければ、子はできない。子孫を残すためだと言われても、実感が湧かない。残さずともいい。いざとなれば、養子でももらって後を継がせればいいだけだ。
曹操の女好きは理解できない。夏侯淵も何人か妾がいるが、どうしてそんなに女が欲しいのかと理解しかねる。口やかましい従兄たちに問うてみたところ、曰く、居れば居るだけ損はしない、らしい。やはり、理解しかねると答えると、貴様は男色かと言われた。馬鹿を口走ってはいけない。気色悪い。
いかに尊敬する従兄たちと言えど、そのときは問答無用に殴りかかるところだった。まあ、そのようなことをすれば、そうかそうかと冷やかされるのは目に見えている。
女が嫌いというわけでもないが、ただ気が乗らない。
こういうことがあった。
夏侯将軍。曹操が丞相に就任してから、そう呼ばれるようになり、いつしか周囲の官僚たちからよく声をかけられるようになった。中央だけでなく地方の役人の声もよくかかってきた。
寄ってくるものどもが持ってくる話は、常に縁談のはなし。耳にたこができてからも、あとから、あとから、降ってくる。
世をときめかせる曹操の近臣である男に、唾をかけておけば、後々、利用することも可能かもしれないという、魂胆のもとに。
人間の浅ましい欲の黒い炎が、いつもまざまざ見えいる気になった。斬り殺してやろうか。十四の時、師を馬鹿にしたものを斬り殺したときの感情がよくよみがえった。馬鹿にされている。足元を軽く見られている。それが夏侯惇の矜持を傷つけた。
もしかしたら、そのことで妻を娶る気になれないのかもしれない。
子なら理嬢で十分だ。
妻を娶ることで、あの汚い欲に触れるのは、御免である。
考える夏侯惇の目の前で、理嬢が寝返りをうつ。
「……………う」
生きていた。
いまも変わらず、心のなかで生まれる安堵感。
寝返りによって、理嬢の白い右腕がのぞく。
すっかり父親の気分になっていた夏侯惇は、布団へ戻してやろうと、右腕を掴んだ。
赤い筋が目につく。
自然にその紅い筋を確認したくなり、起こさないよう腕を引っ張る。
目についたものは、肘から手首にかけてついている、いくつもの赤い筋。ひっかいたような。軽く、ではなく、掻きむしったような。
皮がむけ、血が薄くにじんでいるところを見ると、かなりの力を入れたのではないかと察することができる。左腕も掴んで、見ると、右と同様な筋が残っている。
この傷は。どこかにでもひっかけたのか。それとも、つけられたか。
どちらかといえば、後者の推測が妥当である。あの人殺しに殺されそうになったのだ。犯人のものであるにちがいなかった。襲われかけた理は、どれほどこわかっただろう。曹操による状況の説明によれば、理嬢は声も出せなかったのだ。それほど恐怖で動けなかったのだ。傷にならなければよいものを。傷になっていたとしても、できるだけ浅ければいい、そう願わずにはいられない。ただいまは、平穏を感じていてほしい。
夏侯惇は壊れそうな人形を扱うように、理嬢の腕をしまい、布団をかけなおした。理嬢が身をよじり、また寝返りを打つ。顔にかかる長い髪を、摘んで背中のほうへ戻した。
理嬢が怪我を身体に負うことは、今では当たり前のようになっていた。
拾われ、夏侯邸のもとで過ごすようになってから、理嬢はどこでつけたのか分からないような切り傷を腕や足につけることが多かった。ほとんど、庭で遊んでいるのぬもかかわらずである。
気をつけろ、と言ってもつけてきた。悪いときでは、骨を折ったこともある。その時は、叱りつけたが、その後も、度々、怪我をしてきた。骨も何度か折った。危ない場所はないかと調べたが、治った矢先にだ。
遊びたい盛りなのかと、いつもそれで自分を納得させてきた。しかし、女児には珍しい奔放さだった。
今回は状況がちがった。
明らかな邪悪な意思をもって傷つけられた。
わたしは、特別なことがない限り、夜は外にお出かけしませんから。……………理嬢は言っていた。自分は「心配などしていない」と答えた。心配などする必要などなかったからだ。理嬢は言葉の通り特別な事情でもない限り、夜中に外を出歩くことなどなかったのに。どこか、どこかでなにかが噛み合ってしまったのだ。それさえなければ、怖い思いをしなかったのに。噛み合ってしまったことを私が気づければよかったのに。