赤紅の傷痕
□四
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丞相府にて曹操はいつもの妖艶な笑みを浮かべて迎えてくれた。機嫌がよろしいようだ。
「ご機嫌麗しゅう」
「よい。そのような堅い言葉など」
曹操は夏侯惇に部下ではないと言うようにそう言う。たしかに、漢帝国に仕える身とすれば同じ文官の位ではあった。しかし、夏侯惇は部下としての身持ちを崩すつもりはまったくない。
幼い時から変わらぬ従兄の声かけに珍しくほほえみを軽く見せた。
「遅かったではないか」
「市場で軽い騒ぎがありましたもので、首を突っ込みました」
「騒ぎだ?」
「巡回兵と流浪のもののいざこざです」
「いざこざだ?」
曹操の眉間にしわが寄る。言いたことはすぐに分かった。
「何をしでかした。兵は」
「老人の金を巻き上げようとしたため、流浪が老人を被ったのだそうです」
「つまり、我が手足が害を加えようとした、ということだな」
曹操は民を大切にしている。
民の支持がなければ国が成り立たないことはよく知っていた。漢帝国は、民の声が民の支持をなくし今は崩壊寸前であった。黄巾や五斗米道たちはいずれも民を惑わし狂わせた邪教だが、民の声を聞き民の支持を得たのであった。
財力、権力、それすらも上をいくは民つまり人民であること。国が滅ぶ理由は民の心が国から無くなるためである。曹操は解っていた。
心が必要なのだ。国を成り立たせるためには。人民の心をなくせばどうなるか知っている。息子である呂布に首を切り落とされたあの愚かな暴君薫卓のようになるのだ。
曹操は民の心をつなぎとめる方法を治安に求めた。正しきものが正しさで得た富を蓄えるべきで、正しくない悪しき方法を愛するものが民を蓄えるべきではない、あってはならないのだ。賄賂で私腹を肥やした役所の高官を眉のひとつさえも微動だにせず問答無用に叩き殺した曹操の冷徹な表情を、夏侯惇はまざまざと思い出すことができた。
不正を大いに嫌う漢帝国丞相。巡回兵はそんなことも知らず、民に害を与えた。
曹操の怒りが手に取るように分かった。
小さな傷はやがて化膿し大きな傷となる。化膿してからはもう遅い。癒そうとしても簡単に癒せるものではない。ひとつの芸術品を創るのに職人はどれほどの時を有するか。しかし、壊すのは容易い。
「誰だ、そやつらは。我自ら葬ってくれよう」
「従兄上。落ち着いてください。今回は状況が状況でしたので双方の話を聞くことができませんでいた。金を巻き上げようとしたとはまだわかりません」
「わからない?」
「流浪の狂言かもしれません。ここは従兄上の胸中にしまっていてください。老人の懐は無事だったのですから。私もそういたします」
「そのような確信がどこからくるのだ、夏侯惇」
「ありません。ですが、今は乱れた世。皆、不安なのでございまする」
「だから、狼藉をしたそいつらを殺してやる。治安の良さは安定につながるのだ」
「従兄上。一度くらい、猶予をつけるのも重要なことですよ。調べればすぐに明るみになることです。もし、その行いが正しいものではないと民が感じたならば、従兄上は首を並べ遊んでいると恐れられましょう。ですが、次にそれを耳にした場合、躊躇なく厳罰なされませ。咎めるものはなにひとつおりませぬ」
「ならば今回は見逃してやろう。だが、調べさせて我の頭にはいれておく」
ふう、と息をつき落ち着こうとしているようだった。
「あと、流浪ものですが不審に思えたため、一応、追っ手の者もひとりつけました」
「不審?どのようなことが。不審であったのだ?老人を助けてやったのだろう?殊勝なことではないか」
「顔を見せなかったのです」
ふとよぎったのは、あの口もと。嘲笑し挑発する歪んだ口が脳裏に焼きついて離れない。
「男だったか女だったか」
「いえ、女か男か分からぬ、声が奇妙な奴でした」