赤紅の傷痕

□一
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死体と内臓の凄惨劇が理嬢に影響を及ぼしていないかという配慮。夏侯惇は心を込めて言った。それは、曹操への気持ちを鎮めさせるための落ち着かせるものだったが、かえって波を慌たださせる。

「春には花が咲きます。喜ぶでしょう」

言葉には尽くせない甘い愛情があった。

「大丈夫です。食事もきちんと喰っています。日向で散歩もしていますし、悪い夢も見たりしていません」

「何故、断言できる」

ひとつの黒い瞳に映っているのは、理嬢であるような口振りだった。我には、理ではない、お前が見える。

「理嬢はほのぼのとした娘だから、それとなく」

「ふとした気持ちで言い切れるのか」

「決めつける、いや、期待と言うほうが的確ですかな。ずっとすこやかであればいい、期待です」

「父親だからか?期待するのは」

「まさか。従兄上もでしょう」

教育を任せた男のほうが、深く知っているのは当然だ。でも。適わないなどとは思わない。適わないはずなどない。想う重み。我は、想える。多くの妻妾が居るか無いかの問題なのか?もし、理嬢が正室を望むなら迎えてやる。もっとよい待遇を望むなら叶えてやる。操は、夏侯惇より温かく包める自信がある。

けれど、理嬢は望まぬ女だ。単なる押し付けになってしまう。たったの自己の満足になる。

欠けた部分が精神に、身体に点在して曹操の肉を指先や足から細やかに刻み散らしてゆく。無邪気な殺意、自覚のない刃が貫いて首を狙う。

首を直接狙ってくるのならまだいい。口も出せないくらい苦しめる。凌遅の刑。錆まみれの刃物で、身体を微塵に裂いて。血がどくどくと滝のように溢れ、小さく深い傷が数多く刻まれる。

「忘れていました」

なにを。

「妻を娶るのですよ。従兄上へ報告せずにいました。もしや、淵から聞いていました?」

「いや」

「無事、還られるのであれば初めて見る女房が居るのですから、おかしなもんです」

「やっとか。夏侯淵はよく働いてくれた」

「しつこく、手土産もなしに家に通われるのは迷惑ですのでね」

「邪険に扱うなよ。夏侯淵は好意で通って、そなたを気にかけていたのだ」

曹操に刺さった刃が抜かれ、千切れた手足が縫合される。胸に疼いていたざわめきが、鎮まっていた。

消えていたはずの感情が湧き起こる前に、泡となって行方を眩ます。

「ご安心ください、従兄上」

善意。婚姻の成立につき曹操を心配させない安心か。または、婚姻をしたため、理嬢と疑う余地などない安心か。

「早く、帰りたくなった」

口のなかで呟いたからか、聞こえなかったようだ。ふたたび、夏侯惇が曲を奏で始めた。物悲しい音。天幕の狭隘でよく響く。

暁の雲はたなびく。夜明けが迫っている。
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