赤紅の傷痕

□ニ
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「私の?」

「鼻から暗い方向へと持って行きやがる」

「なぜ私が」

「俺が知るか。自分で見つけろ」

「え?」

「くだらねえ比喩さ」

片目だけを細め隻眼をのぞき込む。会話の途中から引っかかっていた真意は姿の大半をひそめてしまったため、もう自分では捕らえられなくなった。他人の心理はある程度わかるが、夏侯惇は無意識に上手く隠してしまった。

直入に理嬢となにかあったのだろう?と訊けばよいのだが、触れてはいけない禁じ手に触れ、火傷をしそうで、あきらめたのだ。

夏侯惇の両肩に両手をついて立ち上がる。夏侯淵の足どりは颯爽と四阿をあとにする。夏侯惇は追った。

「帰る前に茶の一服でも」

「帰るよ」

紳士然とした口調に、夏侯惇は躊躇いを見せたが、ほんの瞬間だった。すぐ物静かな様相に戻る。言葉なく従兄を見送った。

砂埃が秋風に紛れて舞う帰路を、黙々と手綱を握って歩いた。愛馬も黙って付き従う。にぎやかで騒がしいくらいの空間を好んだりするが、たまに、世界がおのれひとり遺されたような孤独の空間も好きだった。

道に人気はあり、店屋もたたずむ。人が多いからこそ存在する無の空間がある。

そんなとき、がらにもなく思いに耽る。どんなことでもよかった。狩りに出逢う獲物、手に馴染むゆるやかな曲線を弓。今後の流れ。ときどき、人間のことも考える。歩きながら、理嬢について思いめぐらす。

理嬢を側室にと聞いたときは心底たまげた。幼さのすみに、やっと大人の色を付け始めた頃合いの少女、しかも素性も知らない。曹操の女好きと好色を十分承知している夏侯淵だが、性癖を疑った。さらに、夏侯惇に教育を施させるため預けさせたというから苦笑しざるを得ない。重ねて、妻妾さえも迎えず、女を近寄らせない男のもとに置くなど。少女が哀れで仕方がないばかりか、押しつけられた夏侯惇に同情した。

記憶をなくしていた少女は、身体と精神が釣り合わない大きな赤子同然だと思っていた。清廉なあいつでも、こればかりはさっさと突き放し、屋敷の女たちに食事から学問、作法、嗜みすべてを任せる。名目上の教育係は離れた場所で、眺めているのだろうと。

いくらかして訪ねてみると、自分の思惑はみごとにばらばらにされた。耳を片方だけ塞ぎたくなる箏音がする。とんでもない音は、夏侯惇のものではないだろう。

書斎に通されると、書きものをしていた夏侯惇は、夏侯淵を椅子に座らせた。

少女の詮索をしたいと現れていたのか、一瞥しただけで、席を外す。

茶と菓子を運んできた小間使いに、いろいろと尋ねることもできたが本人からの口のほうが面白いと我慢した。箏曲が止む。やはり娘っ子のか。夏侯惇が芸を仕込んでいるのだろうな。

小間使いとの入れ替わりで入ってきたのは夏侯惇である。陰に隠れている少女は、背を押されて俯きながら不器用な礼をした。なにか注意をしようとしたが、さがっていいと夏侯惇が言うと、ぱたぱたと戻っていった。

夏侯惇は夏侯淵のどうでもよい問いに答えていく。

素性はなにかしら知れたか。いいや、さっぱり。

食べ物に好き嫌いは。あまり、ない。

読み書きはできるのか。ふしぎなことに。

へえ。だが、貴人出身ではないな。あの身のこなしは。

大人しそうな女子だね。客人の手前しおらしくしていたが、じつは奔放でな。昨日、腕に大きな切り傷をつくった。

子守は大変か。苦には感じていない。

名前はなんだっけ。理。従兄上はそれに、嬢とつけ加えた。

ご執心だねえ、従兄上。

あの娘っこには、話してやったのか?側室。まさか、まだ話すわけなかろう。

箏曲が響く。

下手だな。だろう。

けど、あれでも巧くはなったんだ。

夏侯惇は夏侯惇の顔だった。夏侯淵は、子どもと接するのなら、おやごころという本能で誰しもが親兄弟のようになると思っていたから、それらを漂わせない夏侯惇をふしぎに感じた。

側室へと預けられた少女だからなのか、故意なのか、まだおやごころに目覚めていないだけなのか。
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