赤紅の傷痕
□ニ
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睡眠に逃げたが夢は見なかった。しばらく窓縁からこぼれる陽を浴びる。夢を見なかったのは俺が、あれから離れたからだ。ある種の証と言えば証なのかもしれない。
まだまだ明るいが、持ち込まれていた朝食は冷えきっている。空だった腹は冷たさに応じてにおいが強まった飯を受け入れた。
髪を整え、着替えをすますと、庭に出た。女どもの声は聞こえなかった。
鳥のさえずりも風の音も草木のささやきも、すべての響きは正体をくらませ不明になった。
四阿のひとつで、柱にもたれながら時の流れを感じた。とても静かな時間で、ひとの気配を感じさせない。煩わしい外界から疎外を命じられたようだ。それが、いまの夏侯惇には心地がよかった。これからはきっと狂わされることはなく、豊かな日々が待っている。願うことだ。
隣に、夏侯淵が座っていたことにも気づかなかった。夏侯惇は、話しかけない。従兄の姿を確認しただけで、目を瞑った。
「従兄上のところへ行ってきた」
音が入ってくる。
「何十日ぶりかの殺人鬼について教えてもらった。従兄上の妾五人が殺されて部屋はめちゃくちゃで掃除に手こずってるってさ。従兄上の眉間がめずらしく深かったよ、出陣もあるし、平然としてろっていうのは無理ってもんだよな」
「臓物五人分とは想像もしたくない」
「ひとり救われて六人にならなかっただけ、よしとしないと」
「ひとり?」
「よかったな、理嬢はお仲間から外れて。ここにいるんだろう?」
「言っておくが、私の屋敷に理嬢という女は居ない」
夏侯淵は切れ長の目をしばたかせたものの、黙っていた。
「預かった従兄上の側室は居る。だが、理嬢はいない」
傾く身体の夏侯惇はひどく憔悴し落ち着きが無いように見える。さらに、理嬢についてなにか大きな変化があったのも分かる。感じ取れることはそれくらいだ。
「その奥方さんはどうしているね?のんびりなさっているかい」
「女どもとそこらを歩き回っている」
「散歩ね」
この屋敷の門をくぐってから、やけににぎやかな華やいだ声が響いていた。
「一緒にしないのか」
「どうして」
「えっ」
「他人の奥方に付いたりはしない。歩くなら、自分の女と歩く」
「ようやく華燭に乗り気かい、それでいいよ。けれど、俺には自棄を起こしているとしか見えんがね」
「先日、淵が言ったような人並みの幸福でも味わおうと思っているのだよ」
「俺が言った幸福?」
目を瞑ったまま夏侯惇は言う。夏侯淵は周囲の音を耳にしながら逃げ口上を聞いていた。すこしばかり外れた理屈に沿った言いわけは、この従弟らしい。しかし当の本人は知らぬうちに逃げ道を見いだしているのであり、見え透いた言いわけに気づいていない。
「人間らしくなって俺はうれしいよ」
「人間らしい?なんだそれは」
「ただの比喩さ」
苛立ち。心の底では言いわけをよしをしていない。夏侯淵はすこしずつ真意を知ろうと顔色を変えぬように横目でうかがった。夏侯惇の左眼は潰れているが、いや、潰れているからこそ並みの人間にとらえることのできないものが見えていると思うからだ。実際、負傷してから夏侯惇は鋭利さを増した。近づくだけで、かまいたちの傷を負わされそうになった気に襲われたこともある。
「冗談は控えてもらおうか。機嫌があまりよくないもので」
「おやおや、なにかあったのかね」