赤紅の傷痕
□一
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芯が抜けたように動かない。息をするたびに、胸が激しく動くのみだ。
「疲れてるね。精神も肉体も」
葉ずれ、草ずれの音がする。混じって、雀が耳もとで囁いた。
「ちゃんと休めよ」
返事をせずにいると、夏侯惇の肩に首をかけ、すぐ横に顔を置いた。
生温かい息が、耳にかかる。
端から見れば、とんでもない光景だろうが、気にしなかった。猿が乗っているだけだと、夏侯惇は考えている。人間さまを手玉に取ったずる賢い猿。
「夏侯惇」
雀は深く艶のある笑みを刻んだ。夏侯惇が何も言わぬことをいいことに、この隻眼の身体に残る懐かしく、かつ官能的とも感じる甘い香りを吸う。自身にも移るように、四肢を重ねる。冷たい空気に着物を隔てた温もりは、存外気持ちいい。
「夏侯惇から、いい匂いがする」
「そうか」
「耳飾り、返してほしい?」
「もう好きにしろ、そんな安物」
「安物でも、とてもいいものだと思うよ」
「俺のではない」
「じゃあ、なんで買ったのだよ」
「……………気まぐれだ」
「気まぐれで買えるものかな」
いつになく、すべてを見透かしているかのような口振りだった。手のなかで白玉を転がし、体重をかけて、香りを堪能する。
理嬢は、ひどくよろこんでいた。
露店が居並ぶ道を、人々の肩をかわしながら歩いた。ふと、目に付いた装飾の店。所狭しと並べられたまばゆい宝石のなかから、何気なく手にした。買って帰り、娘に与える。
高価なものではない。
「……………もしも、女がもらったら喜ぶと思うか?」
「気位の高い貴族の女なら、ちょっと。いや、満足しないかもね」
悩む素振りもなく軽い声音で連ねる。
「女はそんなものか」
あの嬉々とした姿は、芝居だったか。いや、あれは嘘のつけぬ性分だ。
夏侯惇が緑の芝生のみを見ていると、上から、雀が夢見る心地で、言った。
「でも、好きな奴から貰ったのなら、どんな安物でも心の底から喜ぶと思う。単純に、うれしいだろうさ」
頭に手が置かれ、五本の指が髪を絡み頭皮を這う。くすぐったいが、ふわりふわりとした浮遊感が感覚を麻痺させる。
「たとえば?」
「理とか」
うなじに強く顔を押し当てて話すため、よく聞き取れなかったが、ひとりの名だけは、はっきりと聞こえた。のしかかっているものが、男なのか女なのか、覚束なくなってきた。身体だけではなく、思考のほうも麻痺し働かない。
「理嬢が……………」
「俺は理じゃないから、断言できないけど。たぶん、理はそういう女だよ。どんなに貴重なものだろうが、意味がなけりゃ喜んだりしない。高いだけじゃ、だめなんだよ」
「ほう」
「気持ちが、なくちゃ。気持ちがあっても、自分のこころに適うのでなくちゃ。つまりは、難題と言うわけだね」
視界の遠くに、高い空が広がる。
青の色彩に、ぼやける白、鋭い白。遙か彼方では風が吹いているらしく、白が泳いでいた。ひだまりの明るさに、目を閉じる。開けていられない。私には強すぎる。
閉じていても、輝く赤が世界を染めた。
どうして赤いのだろう。眠るときは黒いのに。
暗くなる。
開けさせられる。よく知った顔が、近くに見えた。相手の長い髪が、頬に、首筋に垂れる。こそばゆい。払うのではなく、指先で摘んで退けた。
数度、目を瞬かす。呼応して雀も目を瞬かした。
例を上げるのなら、緑のなか奥にそっと咲いた、しら百合だろうか。乙女のような柔らかな笑みを湛え、少々音程のずれた聞き慣れない歌を口ずさみながら、夏侯惇の黒髪をいじる。
「真っ黒。真っ黒な髪」
指に絡ませ、撫で、引っ張り、輪っかにしながら遊ぶ。遊女から、少女まで。この男はありとあらゆる表情と態度を作る。
雀の瞳を見た。吸い込まれそうな、大きな目。引き寄せられるように、夏侯惇はびっしりと生えた長い睫毛に触れようとする。
太陽の光を浴びた。顔を背ける。雀が、緩やかに上下する胸に頭を置いて、くつろぎながら、謡うように言う。
「俺は理じゃないよ」
理嬢にするように、撫でようとしていた手が、止まった。腕は離れ、芝生の上に転がる。
「そうだな」
「顔も声も同じでも」
「理じゃないな」
「俺は、雀……………」
「おまえは、しゃん、だ」
「夏侯惇に育てられた理の弟」
「しゃん、だ」
白玉が小さく光り、手に握らせられた。