赤紅の傷痕
□一
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「そんなもの、問題ではない」
「ならいいじゃない」
雀の両脇に腕を入れて無理矢理引き立たせ、放る。強引だなと、呑気な長い声を出しながら、よろめいたふりをしていた。こんな馬鹿馬鹿しい男が理嬢の弟だということに、ただでさえ癪に触る。さらに、同じ顔をしているこいつを見ることは、筆舌し難い不愉快さが生まれる。
「苛立ちは健康に悪いよ」
雀は欠伸をしながら、身体の節々を伸ばしている。
「誰のせいだと思っているんだ」
「俺のせいでしょ。このぶんじゃ、疲れてるのも俺のせいだって言われそう。かわいそうな雀」
「疲れてなどいない」
「そりゃあ、よかったですね」
「だが、私の機嫌が優れん大抵の原因はお前だ」
「やっぱり、俺のせいになるんじゃないの」
「ふん」
板床に腰をおろして、手でなにかをまさぐっている。夏侯惇に興味はないようだ。
相手にせぬなら、さっさとでてゆけと夏侯惇は息を吐いた。身体が怠い。これを疲れというに、ほかないだろう。頭の奥が鈍い痛みを伴い、四肢を動かすのが億劫だ。それでも、横になり休息をする気にはなれなかった。無理でも身体を動かしていないと、ひとつのことに気を取られ深く考えてしまいそうになる。
雀はまだ居座っている。
おもむろに、机に手を這わす。時間を潰すため、勉学に励むなりとしたが、変わっていることに気づいた。ない。
竹簡や書簡の山に隠れたりでもしたかと、いくつも取り上げては床に落とす。ない。
もしや。あとはこいつしかいない。
「雀」
「ん?」
「ここにあったものをどうした」
白玉の耳飾りがなくなっていた。
以前、夏侯惇が理嬢に与えた唯一の装飾品。露店で買ったものだったと思う。雨と雷の日、気を失っていながらも右手だけ固く握り締めていた。掌のなかに、桃色に色づいた水に濡れた白玉が光っていた。理嬢は無くしたのではない。夏侯惇が預かっているだけだった。それがない。
「これね。綺麗だね」
「耳飾りか」
「うん」
ちょうだい。にっこりしている。
首から上が、熱くなった。見えないが、白玉が雀の手のなかにある。
「駄目だ」
「俺、こうゆうの好きなんだよ」
「返せ」
「夏侯惇が持ってたって、どうせ付けないだろ?」
「いいから、返せ」
「いやだよ。こんなに綺麗なもの」
「いい加減にせぬか」
白玉が、きらりと光る。摘むようにして見せつけた。
「夏侯惇には似合わない」
靴音を上げながら、雀に近づく。雀は悪戯っぽく口の隅を吊り上げ、猿のように跳び、部屋から出て行った。
貴様。
夏侯惇はその悪猿を追う。回廊を走り回り、庭にでた。猿が餓鬼になった。あれはどうしようもなく餓えた餓鬼だ。自分を見てほしい、見て、見て、もっと見て、かまってと駄々をこねる。理嬢にも、やはりこんな傾向があったかもしれない。怪我をして、叱っても怪我をつくってくるのは、これだったか。
なにを前のことを。
あの娘にもっと、花に水をそそぐように接すればよかったとでも、私は思っているのか?後悔している?自責の念にさいなまれている?雀で償おうとしている?あんなもの、あんな安物なぞ、さっさとくれてやればいい。
私が遣らずとも、従兄上から多くの宝石はいただいているだろう。私が意固地にも雀を追う必要はない。律儀に取り戻すことも。
なくしたことにしてしまい、新しく、価値のあるものを買ってきてしまえば済む。難しいことではなかろうに。
ありがとうございます。理嬢の愛らしい笑み。
とおい日にあったことが、そよ風のごとく、まとわりつく。
走りが遅くなり、足が芝生をゆっくり踏む。息が浅い。身体が重い。喉に潤いがなくなった。肩を上下し酸素が薄い体内に酸素を取り込もうとするが、容易ではない。拒んでいるかのようだ。乾いた口内を、空気がこすれるたびに痛みが伴う。
否応無しに、たちくらむ。
膝を折ると、首に雀の腕が後ろからまとわりつき、覆い被さった状態で、そのまま前に倒れた。草が顔に軽く刺さる。文句を言うことも、はねのけることもしようとはしない。