赤紅の傷痕

□一
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理嬢は首を横に、ゆるゆると振り、立てかけてある背もたれの枕を横にした。そして、布団のなかへと潜ってしまう。

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

「今度は甘みのあるものにいたしましょうね」

「はちみつをつかうの?」

「ええ。砂糖も入れましょうか?」

「あまあい」

「たのしみにしていてくださいましね」

にこにこと笑う理嬢に、頭を下げ、明雪は一度出て行った。狭い空間にふたりきりになると、言葉を交わす。一方的で短すぎる会話ではあるが。

「もうすこし食わねば、身体が保たぬぞ」

寝台に腰掛け、理嬢の長い髪を梳く。眠たげな目を瞬き、頷いた。

「たべてるよ」

理嬢はやつれた。もとより白かった肌はより白く、透き通るかのようで、隈が不気味に浮き出ている。目に力はない。横になり、寝る姿でさえ、危篤の老婆のごときの危うい状態に思える。理嬢はなにも望まなかった。望むことを示さず、事柄を申さず、戻ってきたあの日から、一日の大半を眠り、ごくわずかな時を夢現として過ごす。

曹操の奥殿で、起こったことを知る術はない。だが、理嬢の爪には肉片が挟まっていた。人を殺したという強固たる事実が、明らかとなった瞬間であった。ひとまず、曹操が殺されずに住んだという安堵があり、すぐ頭を鉄棒で殴られた衝撃が身体を貫いた。呆然とする夏侯惇に曹操は理嬢を押しつけ、言葉を残し去って言った。掃除をするためだという、掃除にはどのような意味が含まれているか、知っていても認めたくない。あれ以来、音沙汰ない。

「かこうとんさま?」

「はい」

「どうして……………わたし、ここにいるの?」

理嬢の記憶に欠けている部分があるようだった。何故、夏侯邸にいるのか、いまだに把握できずにいる。さあな。夏侯惇は聞かれるたびに濁していた。はじめてではない。

「ふしぎですねえ」

首をちょっとかしげた。

「ああ、わからんこともあるものだな」

「ずっと、もうとくさまのおうちにいたのに。しかんさまも、たまにあそびにきてね、ぶらんこをして、おにごっこをしたんだけど、しかんさまはあしがはやいからつかまらない」

「今度は私も一緒につかまえてやろうか?」

「だめよ。かこうとんさまは、ずうっとはやいんだもの。しかんさまないちゃう」

より過去の出来事と最近の事実が入り交じっている記憶。

「あっ……………あのねえ」

「うん?」

「もうとくさまが、ねこをくれたのよ。ちいちゃくてかわいいの」

「そんなに可愛いのか」

「そうっ、しろいねこなの」

「名前は、つけてやったか?」

「ゆりっていうの」

以前、曹操の話に出てきた子猫のことだろう。理嬢は猫がいるように、手のひらのうえの虚空を撫でた。

記憶の欠けた理嬢は、幼くもなった。

「見てみたいな。会えるかな」

「でも、どこかにかくれちゃったの」

「きっと、見つかる」

「りのこと、きらいになっちゃったのかなあ」

しゅんとする理嬢は、弱々しく手を握る。

「おまえは、いい子だ。嫌いになったのではない。ただ、散歩がしたくなったのだと思う」

「りは、わるいこじゃない?」

「悪い子ではない」

「そう。りはわるいこなんかじゃない」

「悪い子、ではない」

静寂。

「水をお持ちしました」

扉の前で待機をしていたであろう明雪が、水を湛えた桶を持って入ってくる。いつも、間と間を紡ぐ言の葉がなくなると、頃合いを見計らって敷居をまたぐ。明雪にとって、待つ時間は神経をさらに張り巡らしておかねばならぬ疲労であるにちがいない。

「お身体を拭きましょうね」

「さっぱりするね」

「では、あとのことは、明雪」

夏侯惇は言った。明雪は桶のなかから布を出し、しぼる。

「はい」

外へ一歩、踏み出したとき、声が流れ引き止めた。

「かこうとんさま」

「どうした?」

「まえに、かこうとんさまにもらった、みみかざり、なくしちゃったの」

「耳飾り?」

「あの、しろいたまの」

「あれか」

「ごめんね、ごめんなさい。ちゃんと、あったの。でも、なくなってて」

「気にしなくていい。新しいものを買って来よう」

理嬢は頷かなかった。

部屋に戻ると、雀(シャン)が書簡が山積みになった机に臥せていた。無断で部屋に入っていたこの男に、夏侯惇は嫌悪を露わにするが、雀は飄々といて、ここの主人が戻ってきたことにも無頓着だった。頭をもたげただけで、また臥せてしまう。

「貴様に礼儀というものはないのか」

「礼儀とは、遠慮でしょうか?それはなんぞや?」

「勝手に部屋に入るな」

「だいじょうぶ。いじくるような、野暮なまねはしてねえよ」
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