Novel for all

□bitter taste
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ざく、ざく、ざく。
しん、と静まり返った部屋の中で、包丁の刻む音だけが響き渡る。
「ふわあぁ……」
思わずあくびがでてしまった。
…やっぱり、ねむい……。
頭の中がふわふわとしている。
それでもなんとか包丁を握り、わたしは半分寝ているような状態で刻み始めた。
ちょっとこれ、固い、かも…。もうちょっと…細かく砕けば…よかった、かな…?
そんなことを考えながらも頭は半分別の世界に行ってしまっている。
再びざく、ざくと包丁を動かしていたとき、
「……痛っ!」
体中に戦慄が走った。
今まで刻んでいたものとは別の感覚がしたのと同時に、左手の親指にヒヤッとした刃物の感触が伝わった。あわてて見ると、そこから真っ赤な鮮血が滲みだしていた。
わ、やっちゃった……!
冷水を背中から浴びせられたように身体中が冷たくなっていく。
なのに指先だけは熱を持って激しく脈打っている。
思わず指先を口にやると、口の中いっぱいに鉄錆の味が広がった。

はぁ。
目の前の調理しかけの材料と器具を見渡すと、ため息が出てしまった。



ここは、猪鹿亭の厨房。
今は、もう夜中の……うーん、2時くらいだろうか。なんでわたしがこんな時間にこんな場所にいるかっていうと……。

今日は2月14日。
そう、もう日付が変わってしまったから、今日。
今日はバレンタイン。

一人でそんなことを呟いたら、ますますもってため息が出てしまった。
ほんとはもうちょっと前から用意しておきたかったんだけど、小説の締め切りに追われてて全然それどころじゃなかったんだよね。
昨日徹夜してなんとか間に合ったんだけど、どう考えてもチョコレートは2月14日には間に合いそうもない。
一日くらい遅れたって、とかお店で売ってるチョコだっていいって思うかもしれないんだけど。
今のわたしにはそういう妥協…みたいなことは許されない気がするんだ!
なーんて、ちょっと訳わかんないかもしれないけど、これが乙女心なのかもしんないよね。
やっぱり渡すなら、当日。もちろん頑張って、手作り。
でも作るにはどうしても時間がない。
だから昨日の夜、猪鹿亭にきたときにリタにこそっと相談したんだ。
そしたらリタったら、この厨房を貸してくれるって言うんだよ?
仕込みに入るのが朝の5時っていうからそれまでだったら好きに使ってくれていいよー!だって。
ううう、ありがと、リタ。…そうなの、だから頑張って作らなきゃ!
絶対絶対ぜーったい!喜んでくれるはずだから!

なーんて、一人で意気込んでみるものの、指からは大量に血が流れ出している。うー、おまけに時間もないし。
あー、もう。どうしたらいいのー!?
焦る気持ちでいっぱいで、わたしはなんだか泣きそうになってきてしまった。

と、とりあえずこの指をなんとかしないと…。
どくん、どくんと脈打ちながらダラダラ血が流れてくる。
もー…こんなに時間がないって言うのに…。
そう思ってたときだった。

「……パステル?」

誰ももいないはずの厨房に響き渡った声。
声をあげそうになるのを抑えて振り返ると、そこには……。
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