12/10の日記

02:25
忘れた自分
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この記事は新しいブログの方にアップしようとしたけど
途中からだんだん感情が結構入っちゃって
書き終わったら少し恥ずくなった

だからこっちにアップ







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ほとんどの人がそうであるかもしれないけど、
自分の中に叙情的、感傷的な自分と、そうでない自分とが在る。

俺も場合その境目ははっきりしていて、2つの自分が一緒に有る事はない。
その時その時で、叙情的、感傷的自分か、そうでない自分かが在る。

東京へ来て約8ヵ月経ったけど、叙情的、感傷的自分になった日はほとんど無い。


逆に、去年の春
家を出てから東京へ来るまでは
そうでない自分であった日の方が少ない。
つまり、叙情的だった。


恥ずかしい話
空や山を見て本気で綺麗だと感じていたし
街中の木や虫や風でさえ
何か心打たれるモノがあった。

そこに楽しい人や会話がなくとも
その日一日を充実して過ごす事ができ
それで笑みさえ生まれた


心が落ち着いていた
静かだった

だから、とてもよく物事を考えた
金の事とか明日の予定とかじゃなく
なんというか
人は何をしているのか、
何を求めているか、とか
この木は幸せなんだろうか、とか
何の為にここに在るんだ、とか


改めて口に出すと馬鹿馬鹿しいような事を、
静かぁーな世界で黙々と考えてた


そうしている自分が好きだった

口を閉じ
思うがままに思える

それは凄まじく純粋で
なお且つ研ぎ澄まされたものだった



東京で始めた仕事によって
そういう自分は消えた

そういう自分が居た事さえ忘れてしまう。

何故か無理をして
いつの間にか溜息をついている




何故そうなるのか
この前気づいた


先の事しか考えていないから
過去を思うこと、考える事を止めて
ただただ進む事だけを考えて来たからだと思う
街路地に咲く花を見なくなり
空を見なくなり
人が生まれた理由や
幸せの定義なんかを考えるのを止め
明日の、これからの仕事(お金)の事を考えるようになったからだ



だから昔の嫌な記憶を乗り越えられたんだと思うけど
その代償に、好きだった自分さえ捨ててしまったんだと気付いた


今からでも取り戻せるんだろうか


明日から少し
木を眺めてみようと思う

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